ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化編7第詞曲作作一平理民森山小園農学校校歌012-・いけも一どめお一あにけこいる』フよじ。りたどれ一ぬえたにみみつひ代の校章校時学農えたはう一ふくがきよきくしだつつ一れがなもまいでせ一二城塁苔に青めども警暉耳に絶えぬれど正しく清き学風は絶えせで今も流れっk舞鶴城下秋閉けて豊かに圃場実る時利鎌に刈るや国民の栄を増さむ糧の本三飛びちる火花花やかに鎚音高く打つ鉄はいななほどこ噺く駒に施して四海を蹴なむ武の標四朝に磨く人の道タヘに競ふ智の巧みとしおざ三年の業に力得て日出づる国を培はむ崎県立高鍋農学校卜改称、農科、畜産科ヲ設置、修業年限三ヶ年トスル。斎藤角太郎学校長兼教諭二補セラル」県立宮崎農学校に次いで高鍋は農学校として第二番目の県立農学校で校名も「郡立農業学校」から「県立高鍋1学校」に改められ、爾来長く{……い……{4、心一像胸生ぶ.角藤斎「高鍋農学校」の名で親しまれることになる。高鍋町では最初の県立学校であった。県立農学校としての開校式は四月十五日に行われた。大正十一年四月に校歌を制定したが上に掲げる。作詞は小森理一で作曲は園山民平である。大正十二年に初めて実施した鮮満(朝鮮、満州)修学旅行は当時、画期的なものであった。同校には朝鮮、台湾方面から勉強に来ている生徒があり、卒業生もまた海外に雄飛している者が少なくなかった。こうした実情に立って教諭の竹内方義らが鮮満修学旅行を斎藤校長に進言、同年十月これを実現したのである。参加したのは三年生で引率者は竹内方義、和田秋広らの教諭で周到な準備を整えた。朝鮮の釜山、京城、平壌、満州の奉天、撫順、大連、旅順などを二週間の日程で見学した。京城では同校卒業生の同窓会かおり、大連では高鍋出身の平島敏夫の歓迎を受けるなど卒業生や郷土の先輩だちから温いもてなしを受けながら内地旅行では味わい得ない体験をしたのである。この旅行は二回三回とこのときを手始めに戦前まで続けられた。このような規模の大きい修学旅行が企画され、実現した基盤に高鍋農学校の創立以来の開拓精神があることを「斎角精神」とともに忘れることはできない。{08 9一申一一一一・引い作〕1よに〕