ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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学校教育章1第共存共栄の実を挙げると謂ふ国家、社会奉仕の精神を植つける児童の精神的訓育を主とした団体訓練を実施することにした。」大正十二年の関東大震災のあと十一月十日には「国民精神作興に関する詔書」の換発があり、自由主義、社会主義の風潮、享楽的傾向に対し、これらを思想国難として対処しようとの機運が高まっていた。こうした社会情勢の中で国民精神作興の具体的方法として、学校活動に導入を試みたのであった。同校が「宮崎県教育」(第二八二号)に発表した「高鍋報国少年団組織並に事業」によると少年団綱領に次の五か条を挙げている。一、忠君愛国の至誠を敗す二、献身以て公に奉ず同胞すべて七千万一北は樺太千島より南は台湾膨湖島朝鮮八道おしなべて我が大君の食す国と朝日の御旗ひるがえす同胞すべて七千万二神代はるけき昔より君臣分は定まりて万世一系動きなき我が皇室の大みいつあまねき光仰ぎみる同胞すべて七千万三、共同を尚び規律を守る四、義務を重んじ本分を尽す五、心身を鍛へ使命に備ふ右のほかに「少年団宣1」五か条もある。誓いの言葉でコ、私共は身命を捧げて皇国のために尽します」に始まり「五、私共は人道を尊び善に向って邁進します」に終わる。少年団は尋常科四年以上で組織し、司令部、活動部、調査部、救護部に分かれ、活動部は第一部(男子)第二部(女子)の二部制で各部は第一中隊から第四中隊に、更にその下部にてIの小隊、その下に三六の分隊を置いた。これらの組織にはそれぞれ隊長なり分隊長がいて整然と行動した。少年団作業としては「公園、御殿、藩侯墓所掃除、左側通行の立伝、道路の修理、神社、墓所掃除、校内作業、女児には特別に家事的作業」などを挙げている。奉仕の当日はラでハの合図で集合、皇居遥拝、国旗掲揚、国歌合唱、校長訓辞、誓約朗読、校歌合唱、任務命令と続き、作業後は「同胞七千万の歌」を合唱、総評がめった。西南戦争五十年祭に当たり舞鶴公園の清掃奉仕はその一例である。上江小学校でも同年二月二十四日青少年訓練団の結団式を挙行した。二実業教育の発展郡立農業学校郡立農業学校は初代斎藤角太郎校長統率のもと、学の県立移管校の基礎づくりも順調に進み、大正二年二九一三)五月二十八日には創立十周年記念式を挙行した。四年三月には新田原演習林に第一回の植樹を行い、六年六月には新山に農場を設置した。このころ斎藤校長を中心に県立移管の論議が活発とたっていた。当時県内には宮崎県立農学校(宮崎)のほか郡立農業学校が児湯、東旧杵、西旧杵、東諸県、北諸県にあり、組合立農業学校が南那珂にあった。郡立から県立に移管を実現することは児湯地域住民の熱望するところであった。こうした住民の要望をくみ取って大正六年二九一七)九月六日、別府児湯郡長、斎藤校長ほか有志は郡立農業学校の県立移管を県に陳情した。農業学校として着実に実績を上げ世の評価も既に高かったこともあって、翌七年四月県立移管が実現する。同校沿革誌に次のように記されている。「大正七年四月一日文部大臣ノ認可ヲ受ケ郡立ヨリ県立二移管、宮958-―