ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化り。拝殿に着すれば日既に没し暫くして都農の方面に点々たる灯火を認む。乃ち勇を鼓して更に進み、八時過木和田小学校に達す。疲(ママ)労甚しき四五名は看護の教師二名と放に留り、他は勇を鼓して十時過ぎ都農に着し小学校に宿泊す。翌日は一の宮神社に参拝し或は記念の撮影などに時を移し一同無事夕刻家に着せり。上江小学校でも高等科生徒の尾鈴登山を毎年実施したが当時の身心の鍛錬をねらった教育の実際をうかがうことができる。大正の初め高鍋小学校の児童数は一、000名を超え校舎の増築ていた。その後逐年増加し大正九年には一、二OO名きょうあいを超えるに至り従来の三棟の校舎では狭障を告げるようになった。そのため実科高等女学校の校舎を借り受けて授業したこともあって早くから校舎増築の議が起こっていた。大正十年度の町会で町債により三万円の予算で増築することが決定し県に申請していたが認可もあり大正十一年四月二十日に起工式を行った。木造の第四校舎で南側に廊下のあるのが第7編ほかの三棟と異なっていた。完成は十月であった。高鍋郷友会報告に「高鍋小学校は今夏以来増築中の処、十月落成せり。新校舎は大いに改善せられ教室七室にして尾鈴の連山を一昨の内に収め眺望佳なり」と記されている。上江小学校も校舎事情は高鍋小学校と同様であった。同校の沿革誌に次のように記録されている。校舎増築時勢の進運につれ児童の増加はしだいに校舎の狭陸を告ぐ。宮原校長、稲倉村長と校舎の増築を図り同時に分教場廃止を企てしも成らず。桐山校長又是が増築を提案し時の村長内田氏に迫りしも機熱せず。税田校長就任するや切にその必要を説き大正十年二月二十三日学務委員会に諮りしに委員その急なるを感じ意大に動きしと難も村当局其気にならず、大正十一年高橋正照氏村長となるやその意を決し大正十一年九月七日第一回の学務委員会を聞き愈々之が増築を議決し同十一月十五日更に村会に於て本校に三教室其他の増築をなし持田分教場の一部模様替を決議す。大正十二年二月十日校舎新築の認可指令あり。同年三月起工、八月竣工、十二月二十九日落成式をあぐ。工事請負者田尾理一、棟梁児玉某、工費約一万円、工事監督綾部友吉。高鍋西小学校経営案中の同校沿革大要に「南校舎西側三教室と玄関増築落成」として大正十二年に記されているのが右の増築校舎で後に東側に更に増築される。この校舎も南廊下でほかの二棟とその点が違っていた。894大正十五年(一九一一六〉二月初め高鍋小学校に「高鍋報国少年団」が結成された。宮崎日報は二月八日の記事で次のように報道している。「高鍋小学校にては今般高鍋報国少年団を創設したがその趣旨とする処は近来我国にも種々の外来思想輸入し国民思想は漸次悪化して社会状態は、個人主義、利己主義、享楽主義に傾き国民精神の弛緩は、ひいて報国少年団の結成は国家を危機に誘ふの重大なる状態でまたかくの如き思想は将来を担って立つ国民である小学児童に影響する事甚大であって、精神の弛滞、行動の不規律放漫、利己主義等の萌芽を見、または道徳観念の深刻を欠くかの様な事実を現出する憂慮すべき事象であるので同校では常に此方面には十分努力して居たが此際特に新しい試みによって児童をして敬度の念を養ひ、責任感を培ひ、国家、社会、公共の為めに誠意奉公するの念を泊養し、皇室中心の伝統的優秀かつ尊厳なる我国体観念を養成し社会