ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化第7編上江小学校奉安殿(大正6年しゅん工〉一O、閉一て退場式此ノ思典-一浴スルヲ得タルハ我ガ校ノ最モ光栄トスルトコロニシテ一同ノ感侃措グ能山ハザルトコロナリ。爾今慎重ノ注意ヲ以テ御真影ノ格護ニ当ルハ勿論夙夜聖旨ヲ奉体シテ其ノ貫徹一一努メ以テ聖思ノ万一ニ報ヒ奉ランコトヲ期セリ。なおこのときは天皇のみの御真影奉戴式で皇后の御真影は翌五年十月二十五日に高鍋・上江両小ともに奉戴式を挙げた。御真影の奉安所は両小学校ともに校舎の中に特別に奉安室を設置し県内どこへ行っても同じ形式のものが多かった。このような中で上江小学校が県内各学校に先がけて奉安殴を建設し大正七年三月十日にその落成式を行った。高鍋郷友会報告(第四一号)に「明治天皇陛下の御影は崩御の後も引続き此迄通り学校に奉安せしめらるLこととなりたるを以て、上江小学校は村費を以て、奉安殿を建設すること与し村会は参百五拾円の建設費を議決したるが同村日向製糸会社社長竹原祐憲君は之を聞きて大に其趣旨を賛成し工費の内に加えられたしとて弐百円を寄付して殿ハ宮原進校長四ヶ年間ノ重大事業ノ一昨年(大正六年)十月竣工せり」と報じている。同校沿革誌に「右奉安ニシテ御影ノ安全ヲ目的トシテ奉安殴ノ設立ヲ職員会ニ提出シ次ニ村会ノ決議ヲ経テ起工シタルモノニシテ、地ヲ現校舎ノ東南約十余間ノ所ニ相シ土工ハ村民ノ出役寄付一一成リ更-一其費用ノ一部トシテ竹原祐士口氏(注H前記祐憲の父)ハ現金弐百円ヲ寄付セリ。当時県下ニハ県庁以外ニ類例ナキ一盛事ナリ」と記されている。当時上江村は人口の増加に伴って校舎増築問題、持田・市の山二分教場合併問題などがあったにもかかわらず、建設を実現したのは教育に寄せる地区住民の熱意が結実したのであった。林間学校と児湯地域の中心校であった高鍋小学校は教授、訓練、地区学芸会養護など教育各分野の研究実践に積極的に取り組みその成果は広く周辺町村の教育に影響を及ぼした。大正五年二月二十八、二十九両日「児童主体徹底本位の教育」として研究の実績を県下に公開した。特に算術教育について基礎教材の反復練習、暗算運算ならびに思考力の徹底、特に児童の発動的学習態度などを重点に挙校一致研究に当たった。892上江小学校においても明治四十四年の第一団地区学芸会を手始めに毎年校区内の各地区において児童の学芸会が聞かれ、農村の父母一般に好評を博した。同校は理科教育、体操教育雄一寸の施設設備に早くから着手し教育関係者の聞に先進校として知られた。大正十二年には算術科の研究学校として県の指定を受けた。上江小学校の地区学芸会と並んで特色ある試みは高鍋小学校の林間学校である。大正十年(一九二一)に初めて実施された。高鍋郷友会報に「林間教授」と題して次の報告記事がある。「高鍋尋常高等小学校にては本年の新しき試みとして七月十二日より二十五日迄字堀内海浜白砂青松の水禽は激浪に戯れ梢頭喉を弄する小鳥の群に交わりて林間教授を行ひ傍海水浴を為しつLありしが教授に対する生徒の注意散漫に流ると事あらんかと憂慮ぜられたるも、実行の結果あつは熱苦しき校舎内にての授業に比すれば却て注意は集中せられ好成績を