ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化欠後回北財氏藤辺村部りまみさ名員くさを叶心助教教校職教得諭諭諭長名国裁数修語縫学身第6 18 2 1実授業3ρて2「ゐ体家事業主菜年3 3時実業裁縫数修学身第間3 18 2 1事家3点寸Mーら数併E宝国t'IE3f呆年3 6長当メ口込担分校分18 18 16 2第7編(旧高鍋高等女学校沿革史)状況であった。教科と授業分担表は右のとおりである。実科高等女学校の特色は裁縫が重視され、そのほかに実業(農業または商業)が加わり、実習を重んじたことで家政を主とした婦人の実務教育が強調された。実業補習学実業教育については郡立農業学校設立の事情を既に述校を置くべたが、以下実業補習学校のことを記しておきたい。実業補習学校規程が省令として文部省から出されたのは明治二十六年(一八九三〉十一月で尋常小学校卒業者に対し「小学校教育ノ補習ト同時ニ簡易ナル方法ヲ以テ其ノ職業ニ要スル知識技能ヲ授クル所」と学校の性格を第一条で示した。これに基づいて二十九年に富高農業補習学校が最初に設置された。二十八年七月発行の高鍋郷友会報告の「故国雑信」の中に次の記事がある。O実業補習学校高鍋ニ同名ノ一枝ヲ起シ専ラ農業ニ関スルコトヲ学修セシメントノ計画ニテ過般有志者集議ノ上委員ヲ設ケ目下調査中ナリ高鍋に農業補習学校を設置する計画が進められていたことをうかがうことができる。この計画は三十年(一八九七)八月、高鍋農業補習学校890の名称で設立され、翌三十一年二月十二日に開校した。島田の高鍋学校の所で高鍋高等小学校に付設したものであった。しかし当時の人々はまだ実業補習学校の趣旨を理解せず、その実情はほとんど高等小学校の変形物にすぎない観があったので、実績を上げないままに三十二年七月には廃止となった。実業補習学校の設立が高鍋にとって時期尚早であったことは惜しまれるが、教育の新しい分野に対し、いち早くその実現に取り組んだ先人の努力は文教に重点を置く伝統とも関連し、強く心をひかれるものがある。実業補習学校の停滞はひとり高鍋のみのことではなか宮崎県は日露戦争後「実業補習学校ニ関スル規則」「実業補習学校施設ニ関スル件」などの県令、訓令を出してその設置を奨励した。その結果、本県の実業補習学校は三十九年に七五校、四十年に一O三校に達した(宮崎県政八十年史)が、高鍋、上江両町村は郡立農業学校設立のこともあって実業補習学校を設置せず大正期を迎えることになる。ったから、第二節大正期の教育小学教育の展開大正期を迎え我が国の教育は国力の充実したこともあって整備が進む。六年間の義務教育制も軌道に乗り、高鍋、上江両町村とも尋常高等小学校の就学率は九九%を超え、校地、校舎、運動場、付属建物、校具、教具、有資格教師などの充実はもちろん教育の方法内容の面にも著しい進歩を見るようになった。就学率に見られた男女の格差も解消した。教科書は固定の教科書を使用し、大正七年(一九一八)四月からは児童中