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概要

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きものを女子のために設けたい」と提言し「行く行くは高等女学校に改めねばならぬ」と論じた。久保昌業口述の中に「石井善隣が女子教育の要を力説したため、その機運が動き、石井名儀で陳情書がつくられ、それに自分が町長として副申し、時の組合長(高鍋上江学校組合管理者)石井習吉に提出したが、校長の則松松太郎にも来てもらい、議がまとまり、県の許可を得ていよいよ女子教育を置くことになった。これが高鍋女子教育の起りで、時は明治三十八年の中ごろのこと」とある。児湯郡郷土誌にも女子中等教育について「明治三十八年高鍋高等小学校に二箇年程度の女子補習科を設けしに創まり」の記事があるが、高鍋東小の沿革誌には四十一年三月に高鍋尋常小学校に高等科を併置し女子高等補習科を付設したとあって女子補習科設置の時点にずれがある。校舎は高等科とともに高月の旧校舎が充てられた。当時久保町長、則松校長始め職員などの努力で女子補習科は学業徳行ともに成績がよく好評を博した。それは生徒数が一O人内外で指導が行き届いたうえに教授に当たった泥谷梅子、城八重子らの力が大きかった。明治四十二年三月、高鍋尋常高等小学校に財部叶校長が宮崎師範から着任する。財部校長は前任則松校長の後を受け継ぎ校舎の建設教育内容の充実刷新に鋭意情熱を傾けたが、女子補習科についても、このままでは社会の要請に対しふじゅうぶんで高等女学校にまで高めたい意図を持学校教育った。四十三年十月、高等女学校令が改正になり、同施行規則の改正もあって、高等小学校卒業をもって入学資格とする修業年限二年の笑科高等女学校に限り小学校付設が認められることになった。この機をとらえて財部校長は女子補習科を廃し、実科高等女学校を同校内に付設する計第1章画を立て柴垣前定町長に諮った。これを受けて町長は町議会に諮り、満場一致で可決をみたので町は直ちに設立の手続きに着手した。四十五年(一九一二)三月十八日、文部大臣の設立認可の指令が届く。高鍋町立高鍋実科高等女学校が正式の校名で三月十八日は以来同校の創立記念日となった。三月二十五日、県知事から学校位置の指定があり北高鍋字天神鶴ならびに大将軍下、高鍋小学校の南東部一帯の地域である。なお同日、併設の女子補習科は廃止され、期聞は長くなかったが女子中等教育のうえに重要な過渡的役割を果たした。三月二十六日、初代校長に財部叶が任命され、二十九、三十の両日、女子補習科修了者につき第二学年の編入試験を実施、四五名が合格した。第一学年の入学試験は四月四日に行い、編入試験と同じく修身、国語、算術、家事、裁縫、体操の六科目で応募者六三名に対し五六名が合格した。入学式は四月十日、授業開始は四月二十二日であった。当時困難な事情の多かった中に、実科高女設立の原動力となってその実現にこ高鍋実科高等女学校( 1lI]立当時〕ぎつけた財部校長の功績は大きく、宮崎県政八十年史には「本県最初の実科女学校であり、明治期にただ一校であった」と記されている。開校当時の仮校舎は高鍋小学校の第三棟東端にあった二階建て校舎で旧高月校舎から移築した建物である。校舎だけでなく運動場も教百六もすべて小学校からの借り物であった。職員は財部校長のほかに三名いただけなので実業および体操は一、889二年合同授業で所定の時数を満たす