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概要

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教育と文化に表記すれば左の如し第7編L県郡割l種言十外タト内7J1j四四一五。。五年農四七年一/\。四四年手l。九五/\ -ノL、?。七五年畜/\。八。年産一四八年四不|ノ\一九4実習地木校実習地左の如し水田反別七反十一歩借地畑反別一町五反一畝二十七歩借地演習林反別十一町一反六畝二十四歩5家畜畜産科併置後益々家畜飼育の急を感じっLありと雌経費の関係上意に任せざるものあるは大いに遺憾とする所なるも漸次経費の緩急を計り購入する計画なり。今飼育家畜の重なるものを挙ぐれば次の如し種7J1j禽馬牛豚家頭数七四九一一六ノ、郡立農業学校の創立から基礎確立の歩みを述べたが、その間児湯郡長堤長発を中核とする行政側の熱意と斎藤角太郎校長を中軸とした建設以来の教職員の率先指導は明倫堂以来の人材養成の気風とよく適合しこれを助長した。後に「さいかく精神」と呼称される質実剛健と開拓精神の同校伝統の校風はこうした創設期に培われていったものと考えられる。なおさいかく精神については大正期の教育で述べる。高鍋実科高等女子の教育は男子に比較すると、かなり遅れていた。女学校の創立初等教育にあっても女子の就学率は男子より常に低かった。学制施行後、女子の就学を勧めるため戸長や学務委員は女の子のいる家庭を戸別訪問して入学を説得したのである。明倫堂は士族男子のための学堂であったし、郷学も男子の学校であった。晩翠学舎、高鍋学校、郡立農業学校いずれも男子のための施設であった。女子の地位は低く女子教育の認識は、まだ低かったのである。888たてまつ鈴木来助が元治元年(一八六四)に起草した「執政一一上リ女学校ヲ立ンコトヲ詩フノ書ニ擬ス」と題する文章があり、後年高鍋実科高等女学校の校舎落成式の際、堤長発によって原漢文が解読披露された(日州教育会雑誌)。男子の明倫堂に並ぶ女学校の建設を提案した卓越した識見がうかがわれる。しかしこのような卓見が実現を見るまでにはその後相当の歳月を要したのであった。宮崎、大淀両町村組合立高等女学校が宮崎小学校の仮校舎に開校式を挙げたのは明治二十九年一月で三十二年四月からは宮崎県立宮崎高等女学校となる。県北では延岡の私立亮天社の女児教舎が三十四年四月に延岡女学校となり、三十九年九月私立延岡高等女学校と改称した。明治三十年代になると小学校の就学率も伸び三十三年には本県は女子も九三%を超え、高等女学校への進学希望も多くなった。高鍋郷友会誌の明治三十四年一月号に是水学人の「高鍋の女子」と題する論説が掲載されている。高鍋において女子教育の遅れていることを述べ「高鍋に一箇の女学校を設立することを僕は主張する。恰も今の高鍋学校が男子に於ける如