ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化就学出席歩合明治四十三年度町/村/J区/別九九九八六四七二九九九七ノ、-一九九九七六八五四九九七七四二三七九九九七一四九九七七- 0七一就学男同女同男女女同男女出席男同'"E司鍋第7編上江(児湯郡教育会様誌第七号)宮崎県の就学率は県、郡、各町村こぞってその向上に努力した結果、全国でも最優等の成績を収め、高鍋上江は早くからその先頭にあったのである。五中等学校の設立郡立農業学中等教育発足については高鍋学校の沿革の中で既に触校の開校れた。明治十二年(一八七九)明倫堂の跡に高鍋中学校が設立、その後公立高鍋学校となり、これを県立宮崎中学校の分校とするよう運動したが実現に至らず、=一十三年(一九OO)児湯郡立高鍋学校となった。県立中学を一県一校とする県の方針があり、高鍋が宮崎に近距離に位置すること、県財政の負担加重などの理由が高鍋学校の宮崎中学分校化を妨げたのであった。一方小学教育の普及率が向上し教育熱が惨透するにつれて中学進学の希望者も増加し一県一校の方針は改めざるを得なくなった。こうした中で三十二年中学校令改正公布があり、本県では都城、延岡の両県立中学が開校する。早くから中学校を独自に発足させた高鍋地区は取り残される形となった。中学校令改正と同時に実業学校令が公布され全国的に実業学校発展の機運が高まる。農業を生活の基盤とする児湯郡において県立中学の運動実らず変則の郡立高鍋学校を正則の農業学校に切り替え軌道に乗せようとの考え方に到達したのは自然の成り行きと言うべきであろう。高鍋郷友会報告(明治三十五年十二月〉に「高鍋学校は来年四月より資格を変更し甲種農学校と為すことに児湯郡教育会及び郡参事会諮問会は大多数を以て可決したり」の記事が見える。後年になるが宮崎新聞にも、明治三十五年十一月二十二日、臨時児湯郡会にて郡立高鍋学校を甲種農業学校となすことを議決した記事がある。翌三十六年四月二十七日、文部省から設置の認可があり「郡立農業学校」が発足する。同年五月九日郡令によって郡立農業学校規則が定められた。第一章総則を挙げる。886第一条本校ハ農業学校規程甲種ノ程度ニ従ヒ将来農業ニ従事スル者ニ須要ナル教育ヲ為スヲ目的トス第二条修業年限ハ三箇年トス第三条生徒ノ定員ハ百五十名トス右に言う甲種農業学校は「農業学校規程」に述べられているが入学資格が「年齢十四年以上学力修業年限四箇年ノ高等小学校卒業又ハ之ト同等以上トス」とあって乙種より程度が高くなっている。規則は以下第一O章まであり学科目、毎週教授時数、入退学、試験、賞罰、授業料、生徒心得、寄宿などが規定されている。右の規則が出た同日初代の校長として斎藤角太郎が発令された。斎藤校長は都於郡の出身で札幌農学校を卒業、秩田県平鹿郡由民事試験場長をしていたのを辞して新設の郡立農業学校長に迎えられたのであった。当時の校舎は旧明倫堂の所で高鍋学校が使用していた建物なので狭く不完全であったが直ちに改築もできない事情もあり五月、一部校舎の模様替えをして開校に備えた。五月二十八日第一回入学式を挙行、この日が創立記念日となった。