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概要

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か、教授用機械器具の整備優良により、県から一五O円の特別補助を受けた。授業研究を始め教師の研修も盛んとなり、四十年五月には高鍋、上江、木城、富田、新田五町村連合教育研究会が上江小学校で創設された。高鍋小で教師の部落駐在を実施したのは四十一年で、この年十月には戊申詔書が発布された。永友鹿十郎、則松松太郎両校長によって学校創設の基礎sつくりをした高鍋小は次の財部叶校長を迎え、町内有志の篤志寄付二千余円などもあって教育の充実ぶりは目ざましいものがあった。校地選定、校舎建設などで不運が続いた上江小学校は隣接高鍋町の教育に少なからず刺激を受け、これに追いつき更に追い越すべく村をあげて教育設備はもとより教育内容の充実発展に努力した。同校沿革誌の四十一年度に「村有志ノ寄付金ニテ購入セル理化学器械及標本到着」「廻転塔、ブランコ、遊動円木ヲ運動場一一据エ付ク、代総テ百五十円」などの記事が見える。右の村有志寄金は総額一、一OO余円に達し理科関係備品を筆頭に飛躍的な充実を遂げた。そのうえ教師たちの創作工夫した教授用具は昆虫、植物などの標本をはじめ動物標本、地理模型など賞を受けたものも少なくなかった。日州教育会雑誌に当時の募金の記事があ応ずる者多く三百余名、総金額遂に予定の殆ど四倍一千る「(募金に〉学校教育一百余円の大金額を得るに至れり(中略)鳴呼村有志諸賢の吾等に寄せらるL同情の厚きと小学教育に熱心なることは実に感侃の至りに堪へざるなり」当時上江地区の人々が学校と一体となって教育の充実柊備にいかに真剣に取り組んだかうかがい知ることができる。四十二年四月に高鍋小の則松校長が上江小に転じ同校の整備はさらに充実を見ることになる。第1章高鍋、上江両小学校の分離独立はおのずから教育整備の競争を誘発し、この地区の文教尊重の歴史と風土の基盤の上に相互に、よい意味のライバル意識を育て、協力と競争を続け児湯の教育に大きな役割を果たすのである。就学率については前にも触れたが、明治二十年代後半から厳しい就学督励策が実施された。二十八年の町村小学校生徒賞与規則、三十三年の学齢児童就学等奨励に関する規則などが作られ各町村は競って就学率の向上に努力した。就学表彰旗はその一つで学齢児童一OO中就学児童の歩合男子九O、女子七O以上(毎年十二月三十一日現在)に達した町村に就学表彰旗を交付した。旗は縦三尺、横四尺五寸紫色の布地に「就学表彰」の文字を染め抜いたものであった。また年間授業日数の無欠席児童には賞品が与えられた。上江小学校沿革誌に「三十七年度、就学出席歩合規程以上ニ達シタル為県庁ヨリ就学表彰旗ヲ本村一一下付セラレ本日(三十九年一月八日)当校ニテ之カ掲揚式ヲ行フ、持田小学校モ来リ会ス」とある。県内女子の就学率は学制実施以来男子より低く、明治三十二年になっても四七・五%で男子の八五・六八%に対し大差があった。しかし児湯郡は県内の各都中最高で全国平均を上回っていた。三十三年の宮崎県学事年報中、児湯郡内学事状況に「就学ニ関シテハ諸般ノ施設中最モ力ヲ用ヒタリ、則前年-一於テ定メタル男女歩合ヲ九十以上ニ達セシメントノ目的ヲ以テ或ハ町村長、町村学事主任書記、学校長ヲ召集シテ屡注意ヲ促シ或ハ視学郡書記ヲ各町村三派シテ督責セシメ或ハ不出席児童保護者ヲ召喚シテ本官自ラ説諭ヲ加へ或ハ奨励法トシテ町村ヲシテ学齢児童就学保護規約ヲ結バシメ無欠席者一一就学徽章ヲ与フルノ制ヲ設ケ通学区域各部落出席歩合ノ高下一一ヨリ就学旗ヲ与フルノ法ヲ施サシメ(中略)出来ル限リ奨励督責ノ道ヲ尽シタリ」とあって努力のほどがしのばれる。明治四十三年度の状況は次の通りである。885