ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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り、道路を開通することを交換条件にして解決したという。しかし日州新聞は三十九年九月十二日の高鍋町議会で永谷分教場の廃止決議をしたことを報道しているので、このときまで残っていたのであろう。明治四十年(一九O七)小学校令改正、翌四月実施、尋常小学校の年限を六年に延長し義務教育が六年制となった。この年の十一月上江村議会は清水仮教室の閉鎖を決めたが、老瀬地区の住民はこれに反対して二年生全部を木城小学校に転校させ十二月には三、四年生も木城へ転校させる事態となった。一方上江小学校敷地も現在地に決定し四十一年一月四日に新校舎の起工式が行われ、四十二年に完成をみた。老瀬地区の問題もやがて解決し一一一月六日には木城小へ転校した児童も全員上江小へ復帰した。三月二十六日に高鍋上江学校組合解散式および同組合設立の高等小学校廃校式が行われた。同二十八日には高等小学校廃校のため県庁に御真影を返納し町内全戸国旗を掲揚して敬意を表した。こうして高鍋尋常小学校は高鍋尋常高等小学校に上江尋常小学校は上江尋常高等小学校に校名を改称しそれぞれ高鍋町立、上江村立の小学校として分離独立した。両小学校の校舎は財政の都合もあって年次計画で建設されたが、高鍋小学校は三十七年に二棟を建て、第三棟は四十一年五月に着工した。同校沿革誌に「高月ナル旧校舎ヲ以テ高等科及ピ補習科ノ教場一一学校教育第1章高鍋尋常高等小学校~創立日なお浅く充テ教師生徒トモ之ニ通学セリ。校舎ノ増築ハ実一二三十七年度以来ノ大工事ニシテ敷地二千二百八十九坪、価額六百四拾円、校舎付属建物四百九坪工費一万二千二百八十一円ヲ要セリ」とある。次いで四十二年十月には同年八月に着工した校舎増築工事が完成、十月三十日に落成式を挙行した(久保昌業町長報告書〉。=一棟の校舎、付属建物、運動場、校庭の整備など主要な学校環境の整備を終わったのである。上江小学校の学校敷地については当初意見の対立があったり、決定した所が地主の了解不成立で崩れたりした。校舎建築が始まってからも請負業者の病死、郡立農業学校、軍馬補充部などの大きな工事のため職工、資材の供給が影響を受け完成が遅れた。第一期工事の南校舎と宿直室が完成したのは四十一年九月十五日、第二期工事の北校舎、渡廊下、便所などは翌四十二年三月に完成した。この北校舎は高月の組合立小学校の校舎を改築したものである。三月十日に落成式を挙行、併せて児童作品展、書画古器物展、祝賀運動会を実施した。校地面積一町三反四歩、建坪三OO坪、工費一万二、六OO円であった(日州教育会雑誌)。この年四月二十日に上江小学校では御真影の拝戴式を行った。当時三財三納両村組合立の尾能高等小学校が廃校となり御真影を返納するので、これを上江小学校に拝戴するよう申請して許可された。「村内各戸国旗ヲ掲ゲテ敬意ヲ表シ祝砲頻リニ轟クノ一袋一一校門ニ達ス。時-一午後二時、門前二二、四十ノ出迎人アリ。門前ノアIチニハ菊花桐葉ノ模様ノ上ニ奉迎ノ文字ヲ表ハシタル額ヲ掲ゲ之ヲ飾ルニ多数ノ小国旗ヲ以テス・」(則松松太郎校長報告書)。このようにして御真影を奉迎、拝戴式を行った。持田尋常小学校は、この年五月に廃止され上江小学校の持田分教場となり、尋常四年までを収容、複式二学級編成であった。当時の学級編成883