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概要

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教育と文化である。日清戦争が終結し、国力も向上し、就学率も漸次増加してはい第7編たが、男女聞にまだかなりの聞きがあった。就学率向上の対策がとられ、教員不足についても対策が講ぜられた。明治三十三年(一九OO)八月の小学校令の全面改正は既に記したが、これによって我が固は義務教育が四年制となった。また高鍋上江両村学校組合は新学令を受けて尋常小学を別々に設立し、高鍋尋常小学校の校舎は両村組合の高等小学校とすることを議決した。三十三年十二月のことである(宮崎新報〉翌三十四年二月七日、高鍋は町制を施行した。この年十一月一一一日には小丸川原で郡内小学校連合運動会が聞かれ参加数は三、000人の多数に達した。参加者は高鍋上江の各家々に分宿し当日は早朝から日没まで六回に分かれて体操、遊戯、徒歩競争、小隊教練などに技を競った。郡内小学校の連合運動会はこのときが始まりで当時としては画期的なものであった。また同じく三十四年に高鍋小学校校歌が作られた。当時音楽学校に在学中の矢野盛雄が委託を受け、勝浦鞠雄に作詞を依頼してできたものである。高鍋小学校校歌さかえ久しき我が校のそのかみ遠く尋ぬれば勝浦鞠雄作詞御代安永のその背ふみの石ずゑ置かれけり名も高かりし明倫のまなびの庭に今もなほ土民あまねく来通ひてまなびわざ学の業をぞはげみける882城山まつの影高く小丸の川の末きよくおのが智徳をみがきなし身を立て家をおこさなむ作曲は東京音楽学校の山田源一郎教授、高鍋の校歌第一号だが、楽譜は残っていない。高鍋・上江明治三十七年(一九O四)に入り日露両国はついに戦二校の独立争に突入した。この年三月十日、三十三年の学校組合決議に基づき「高鍋町トノ組合ヲ解キ清水ヲ廃シ市ノ山ヲ分教場トシ上江村大字上江ヲ一区トシ上江尋常小学校ヲ置ク」(上江小沿革資料〉こととなり、平原の上江村役場を仮校舎に当てた。時に児童数は男子八三人、女子七三人全校一五六人、三学級編成であった。上江小学校の場合は戦時下のため新校舎の建設が遅れたのであった。清水小学校も廃校して上江小学校に統合することとしたが、仮校舎のため三十八年一月には一、二年生二一名を再び清水小学校で授業することとなった。高鍋尋常小学校は明治三十六年十月、位置を現在の菖蒲池に決定、三十七年五月、新校舎の建築に着工し夏休み中に完成、九月三日にここへ移った。同時に御真影ならびに勅語謄本の御下賜もあって、五日に御影拝戴式と落成開校式を挙行し尋常科の学校組合から分離した。学校の敷地面積は三、七二O坪、価額は一、二九六円、校舎ならびに付属建物の面積は三六七坪、工費は六、四一九円であった。永谷小学校については久保昌業、が「思い出すまま」の中で高鍋尋常小学校分離独立の際併合したと語っている。しかも廃校にかなり反対があ