ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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ぎよじ御璽文部省は十月三十一日教育勅語の謄本を全国の学校に頒布し、その趣旨の貫徹に努めるよう訓令した。宮崎県でも二十四年一月に公私立学校へ頒布の勅語謄本拝受式を行った。高鍋地区でも高鍋、永谷、市の山、老瀬、持田各小学校と高鍋学校に頒布の申請が県から文部省に提出されており(県古公文書)右の拝受式はこれらの学校を含んでいたのであろ〉勺ノ。御f名f明治二十四年十一月文部省令によって公布された小学校教則大綱第二条には「修身ハ教育一一関スル勅語ノ旨趣ニ基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ油養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」とある。また同じ年に作られた小学校設備準則には「校舎ニハ天皇陛下及皇后陛下ノ御影並教育ニ関スル勅語ノ謄本ヲ奉置スヘキ場所ヲ一定シ置クヲ要ス」と規定しているし、小学校祝日大祭日儀式規程にも紀元節・天長節などの祝日、大祭日には儀式を行い、その際には教育勅語を奉読し、勅語について訓示するよう定めている。儀式に関する宮崎県の規程(明治二十五年〉には「勅語ヲ奉読スルトキハ参列ノ者及参観ノ者一同体ノ上部ヲ少グ前ニ傾ケ頭ヲ垂レテ敬意ヲ表ハスモノトス」とあって細部に及んで徹底を期した。固定の小学修身書は四年生以上巻首に教育勅語を掲げ児童学校教育は全員暗請した。儀式そのほか行事のたびに御真影に最敬礼し、校長の勅語奉読を低頭して拝聴した。職員生徒をはじめ町村の有志も儀式に参列し、これが長く我が国の教育の特異な型となった。明治二十五年十一月一一一日、高鍋小学校の天長節祝賀式の状況を次に挙げる(高鍋郷友会報告)。第1章十一月三日ハ天長節ノ佳辰ニシテ祝賀式ヲ高鍋小学校一一挙行セリ、今其景況ヲ記サンニ式場ノ正面ニハ両陛下ノ御真影ヲ奉置シ両側ニハ正四位公(秋月種樹〉ノ御書ヲ掲ゲ花瓶ヲ飾リ凡テ清粛、午前十時一同着席右側ニハ同校職員左側一一ハ郡長郡書記町村吏警察署長警部参観人等十数人礼服着飾中央ニハ数百ノ生徒列席セリ。先ヅ校長御真影画ヲ開扉スルヤ満場斉立恭ク敬礼ヲナシ次ニ生徒君ゲ代ノ唱歌ヲ洋琴一一合奏セリ。終リテ校長勅語ヲ朗読シ再ピ生徒天長節ノ佳譜ヲ奏シ次ニ校長ハ天長節ノ吉日ヲ説話ス。終リニ満場一致両陛下ノ万歳ヲ健呼拍手シテ順次退場セリ。教員ハ生徒ヲ運動場一一率ヒテ整列セシメ高等科生徒ヲシテ円陣ヲ作リ運動シナガラ熊本寵城ノ軍歌ヲ左モ勇マシク詠ゼシメシハ美事一一テ面白ク式ヲ終ヘタリ。このようにして教育勅語を中軸にした教育は明治・大正・昭和と続けられ第二次世界大戦の終息時点にまで及んだ。島田・上江両学制頒布以来、高鍋・上江地区の中心校として島田小学校の合併小学校が重要な役割を果たしてきたことは既に述べたが、明治二十年(一八八七)四月島田・上江両小学校は合併し両村共立の学校となり高鍋小学校と改称した(東小、西小沿革誌)。場所は島田小学校の所である。平原の上江小学校の校舎は上江・持田両村の戸長役場として二十年四月から使用された。合併した高鍋小学校は、校舎を高月に新築し二十一年五月五日に落成式を挙げた。尋常科高等科を併設した東児湯地区の中心校であったことは言うまでもない。校舎面積二O三坪、敷地面積一、四三二坪、新築費用一、三二九円余であった。この校舎は高鍋税務署の所で現在その正門入口に「高鍋小学校跡」の石碑が建っている。北側が正門で南に裏門があり西隣りは製糸工場であった。校舎は南北二棟五教室ずつ一O教室、ほかに秋月墓地の入口、用水路の橋を渡ったところに、南北一棟四教室の校舎があった。女子校舎になっていた所で旧養蚕室の建物である。高月の校舎は南北二棟であったがこれを渡廊下で結び後に東側に二階建て879