ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化立となる前の高鍋学校の実態をも推察することができる。この文集にもう一つ、和木貞の「高鍋学校開業祝詞」がある。これは明治十九年五月十七日の開業式に生徒代表として和木が読んだ文章で高鍋学校が組織を改め、児湯東部七ケ村有志の出資金利息で運営するようになった際、教科内容なども尋常中学に準じて充実を図った再発足のときの祝詞である。和木は明治以来洋学による摂取の盛んなことを述べたあと次のように書いている。第7編「今ヤ我校修繕ヲ加へ前日ニ比ス其観ヲ異ニセリ、其結構ハ言ハズシテ可ナリ、校内ノ規則ハ甚ダ厳其教則ハ甚ダ善而シテ校ノ体裁ハ蓋シ大都邑ノ高尚学校一一譲ラザルベシ。校ハ則チ此ノ如シ、校生タル者他ロ巴高尚学校生徒ニ駕スル数等タルモ山一旦ニ之-二歩ヲ譲ルベケンヤ・:」(以下略)秋月種樹編集の作文集とそれに添えた右の二つの文章はそれぞれ高鍋学校の実情を伝える資料として貴重なものであるが、このことについて高鍋郷友会報告(第三七号)に萱島太郎の文章が載っている。明治二十八年(一八九五)七月の高鍋郷友会報告に「目下生徒四十四名、内穂北四名、富高四名、美々津二名、福島一名他は高鍋上江出身ナリ。過般ヨリ一等軍曹タリシ平山誠一君ヲ蒋シ兵式体操ヲ課スルニ至レリ」とあって兵式体操が導入され、高鍋を出発して穂北、佐土原、富田を回る里程二ニ里の雨中行軍を決行し「一同至極壮健ナリキ」とある。日清戦争に勝利をおさめ軍事教育も重視されてきた時期と思われる。武藤顕一の回想録にも野外演習や行軍の記事があり、規定以外の時間にむやみに演習に駆り出されるのは困ると言って学校のやり方に異議を唱えたと述べている。学校には銃器庫があり、正式の武装をして兵式体操や野外演習を実施した。明治二十九年二月の宮崎新報には高鍋学校生徒と高鍋小学校三、四年生合同の発火演習が小丸川渡船場から古港の間で実施されたことを報道している。修学旅行は学校の行事の中で主要なものであるが武藤が入学したころに鹿児島旅行の計画を三年生が作り一・二年の教室に来て説明し旅行参加を勧誘されたことが記してある。明治三十三年六月六日から十八日まで高鍋学校職員生徒四O名が京阪地方へ修学旅行をした記事が宮崎新報に載っている。874回想録には胴上げの風習|祝意と制裁の二種lとか寄宿舎での規則違反者に対する布団むしの懲罰、職員室の先生の机から弁当のおかずに毎日使ういわしの干物を盗み食いしたいたずら話など盛り込まれている。そんなことで学校生活を楽しんだのであろう。高鍋学校の生徒数を挙げておく。(明治三十一年五月三十日調査)同同同同同同同同同宮l崎県県同同同同同同同同同児よ易郡郡下新三美都川富木上高町穂北田納津々農南田城江鍋村四三二二三O一三八三年二o 0二三o 0二五八年o-00-0三一二三年l言口L十六四二四七O四六五回同同同同同同組備メ口斗考