ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化高鍋の球史は古い」と述べている。武藤の回想録には修学旅行の計画実施をめぐって三年生の封建的な圧制に対する憤慨の記事もあるので、封建的な遺風を排除しながら自由な民主的学校運営を目指していたのであろう。第7編「一般に高鍋学校の生徒は荒っぽい行が多かった。当時は柔道や撃剣が盛んでテニスなんか見たこともない位、ベースボールは時折真似をやるが夫も僅一小部分で私共はそんな遊戯は青年の活気を殺ぐものと思ってゐた位、高鍋学校の剣術と云うのが又有名なものであの山岡流の柄元よりも剣先の方が太い竹万で力一ばいなぐり付ける。横面が盛んに参る、組打が行はれる。学校以外の者に対しては時折膝斬が行はれて飛入りの剣士を弱らしたものだ」と武藤は当時を回想して書いている。学力向上は高鍋学校の重点目標の一つであった。晩翠学舎のあったころは有志生徒はここに籍を置いて漢学の力をつけようとした。明治三十年代になると宮崎からクラlク牧師が来てキリスト教会堂で毎週月、火の二晩英語学習会を聞いた。七時から八時まで上級、八時から九時まで初級でナショナル第一読本を学んだ。武藤らはこの英語の夜学にも出席し英語の実力をつけたのである。講師はクラlクから園田重賢伝道師に代わるが英語の勉強に変わりはなかった。武藤は朝四時から五時には起床して勉強一時間、弓道(巻藁)一時間、学校の授業が終わると柔道に精を出し夜は英語の夜学といった精進ぶりであった。河野円蔵の後任に古藤重光(数学)が来た第一日目「明日は問題を十四聞やって来い」と言った。生徒が「ほう?」と驚くと「何がほう?だ、十四聞くらい何だ、私等は一時間平均四十題もやった」といってナポレオンがアルプスを越えるとき、幕下の将軍が不能なのを説いたときの言葉「不能の語は愚者の字典にのみある」を引用して努力を促したことを武藤は感慨深く回想している。そして「古藤先生の数学と並んで園田先生の英語、田村、柳先生の国漢文は高鍋学校の誇だった」という述懐には勉学一筋に打ち込んだ青年の日の実感がこもっている。士口藤が指導に当たった「武藤の塾」と呼ぶものがあった。横筏の武藤東四郎の二階建て長屋を利用して聞いた学習塾で古藤が在学した同志社学校の寄宿舎を模倣したもので食事は自宅ですませ勉強のときだけここに集まる。夜六時から十時まで勉強し、ここで泊り朝は六時に起床、四時間ぶっ通しで話しひとつせずに学習に打ち込む、五、六人ずつ四組くらいに分かれて机を並べ各班に座長を置いた。高鍋と上江に住居のある者の中有志の人々が参加したので、学力もついたが不参加の生徒たちから嫉視され投石の妨害を受けたこともあった。学校にも寄宿舎があり武藤の塾生も後にはここへ移って合流した。ここも舎則はよく守られた。夜間勉強中は他室へは出入りしない、大きな声はたてない、菓子店などに出かけないといったことである。夜眠くなると運動場に出て駆け足をしたり、器械体操をして眠気を払った。高鍋上江以外の出身者のために古藤が筏の綾部豹蔵の家を借りて始めた寄宿舎もあった。古藤はこれに力を尽くし学校の寄宿舎に行かなくな872ったので、学校のほうが減っていく始末でわずかに四、五人となった。明治三十四年の二学期の終わりに学校の寄宿舎は解散になり、古藤の結婚したこともあって筏の寄宿舎も消滅した。町立図書館に明治十六年(一八八三)三月の高鍋学校の学力試験表が保存されている。二枚にわたって在校生二九人の試験成績が記入されている。その初めの部分を掲げる。次は二九人の成績一覧表の初めの部分で極点は合計点、成点は総合順位であろう。得点の合計のみでなく試験結果の内容をも考慮して順位が