ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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に再び高鍋学校を児湯郡立となし県立中学校の分校とするよう郡ならびに県に対し請願を行った。県は三十二年五月に都城、延岡両中学校を創立開校したがこれより一月早く宮崎尋常中学校は宮崎中学校となった。このような動きの中で三十三年三月ようやく要望の一部が認められ高鍋学校は児湯郡立高鍋学校に名称を改めたが県立中学校の分校は実現しなかった。これは県内中等教育機関の整備ふじゅうぶんな当時にあって高鍋学校が宮崎中学校に近接していることを始め主として県の財政的事情などによるものと推察される。三十四年二月七日高鍋村は町制を施行し高鍋町となったがその翌年十一月児湯郡会は郡立高鍋学校を甲種農業学校となすことを議決した(宮崎新報)。高鍋郷友会報告(明治三五年二一月、第八号)に「高鍋学校は来年四月より資格を変更し甲種農学校と為すことに児湯郡教育会及び郡参事会諮問会は大多数を以て可決したり」の記事が見える。実業教育機関の整備がようやく関心を持たれるようになって、実業学校令も明治三十二年(一八九九)二月に公布された。県立中学校の分校昇格の容易ならぬこと、更に農業教育機関設立への地域の願望が右のような決議となり今日から見れば要望の変更ともとられる結果を招来したものと考えられ、当時の状況下では見識ある判断であったのであろう。学校教育かくして明治三十六年四月郡立農業学校が設立され郡立高鍋学校は明治十二年以来幾多の変動や危機を克服し、この地区唯一校の中等教育機関としての使命を終えた。第1章明治四十三年八月に武藤願一が記した「回想録、高鍋学校時代」という冊子が町立図書館に保存されている。武藤は明治三十二年に入学し三年間在学したので高鍋学校の終末期の情況を知ることができる。そのはしがきに「私は高鍋学校生活の愉快、学校の生活師弟聞の濃かな情誼、誠実なる同窓聞の友情、校内に横溢せる青年の活気、正義の念・::・この特色ある校風を書き表はし度いと思った」と述べている。この回想録などを資料に学校生活の概略を記す。学校は明倫堂のあった所で現高鍋農業高校の辺り、校門は南側にあり、秋月種樹の書いた「公立高鍋学校」の札が門柱に掛けてあった。一般に「公立学校」の名で呼ばれた。高鍋の頭文字「T」を図案化した逆錨形徽章のついた海軍帽が制帽で上衣はばかに短く、スボンの図抜けて太い制服は少年たちのあこがれであった。「公立学校は羽振りがきいた」というから当時この地域唯一の最高学府でエリート意識を持ってここに通ったのであろう。制帽制服に二寸歯の下駄を履いた姿は錦絵に出てくる旧制高校生を思わせる。同じ校地内に島田小学校があり、校舎、運動場は別になっていたが近接しているので小学生をいじめたりからかったりすることもあった。女の子のまり遊びのまりが垣根を越えて高鍋学校の校庭にはいる。拾って返してやることもあるがときにはわざと取ってや女児が垣根の破れから取りに来ると「本校生徒の外出入を禁ず、之を犯す者は胴上に処す」という禁札をたてに侵入して来た女の子をつかまえるので後には小学校教師の森カツ(後の荒瀬カツ)が域勇雄校長に談じ込んだこともあった。らない。高鍋学校は文部省の方針に従って創立された中学校であったから教科内容などほとんど中学校令などを準用した。しかし文部省そのものも年を追って教育法規を整備していった時期であり、そのうえ高鍋学校は私立の変則中学なので明治十二年創立以来二四年の聞には幾度も改正や変化があった。高鍋郷友会報告(明治三十年四月、第三一号〉所載の校則摘要を次に掲げる。869