ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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への理解の不足など悪条件の中で高鍋学校ないし高鍋中学校の果たした役割は大きいものがあったと考えてよい。明治十七年一月の始業式に秋月種樹が「開講祝辞」をおくつている(高鍋郷友会報告〉が当時種樹は高鍋城跡の千歳亭に居住して、高鍋中学の生徒に一教師として教育に参加していたのである。同年一月二十六日、文部省は中学校通則を定め、中学校の目的を忠孝の道に基づき中流入土あるいは上級学校進学者を育成することとした。こうした教育の勤きの中で同年六月三十日、町村立高鍋中学校は、公立高鍋学校と改称された(県政八十年史)。高鍋史友会報に明治十九年四月、高鍋中学校を高鍋学校と改称、児湯郡七箇村有志の出資による基金の利息で運営する、との記事があり校名改称の時点がずれている。十八年四月には公立高鍋学校に晩翠学舎を吸収し同校の漢学部としたことは既に前に記した。県立分校運明治二十四年(一八九一〉は高鍋学校にとり経営危機動実らずの年で、教師二名生徒四名であった。これを改善するため尋常中学規定に準拠し、組合組織にする運動を始めたのは二十六年である。翌二十七年三月、高鍋学校は高鍋村ほか六町村(美々津、都農、川南、木城、上江、富田)学校組合の管理する学校となり、校長(当初は校長心得)は城重維が就任した。同年四月の生徒数は三七名でようや学校教育く廃校の危機を脱している。二十八年には校舎の移転があったが高鍋郷友会報告に「高鍋学校モ近来拡張策ヲ取リ尋常中学校ハ入学程度ヲ高等小学二年卒業ニ改メシモ本校ハ依然トシテ高等小学全科卒業トス」と記第1章しているのは当時のことである。三十年三月末公立高鍋学校第一回卒業式が行われたが卒業生は五名であった。この年七月組合立高鍋学校を郡立中学校とする運動が開始され、児湯郡長あてに申請書が提出された。更に同月十日には高鍋学校を郡立中学校とし県立宮崎中学校の分校とするよう県知事に申請した。高鍋郷友会報告から当時の申請書を転記する高鍋学校を木県尋常中学校の分校とし地方費支弁の義に付申請本組合に於て設立せる高鍋学校の義に付て本郡長より去る二十八年二月二十八日付(号外)を以て該卒業証書を有するものは本県尋常中学校第五年期に無試験編入相成度旨上申せしに右は容易に聴許難相成哉に付猶同年六月十四日付甲第三五六号を以て該校完備を要する為め地方費支弁を以て相当の教員一名補助の義上申の処右は施設の緩急及経済の関係等より御詮議難相成旨内務部長より通牒有之候趣無余儀次第ニ一候得共、爾来教育界の趨勢を熟察するに中等教育は益々其普及の必要を促せり。而して之を本県の現況に照すに県庁下唯一箇の尋常中学校のみを以て県内一般の需要に応ずるに足らざるは明了なる義に付将来漸次本校分校数ケ所に設立を要する事と存候側に聞く隣県大分の如きは大分中津両本校と杵築臼杵竹田宇佐の四分校ありと、是れ悉く地方費の支弁のみにはあらざるべきも必ず多少の補助あるべしと存候。乍去本県の経済は未だ遁かに如此多数の設立を許す能わざるべし、何て先づ以て其の必要の地に於て現設尋常中学の分校を創置せらるL義実に当分の急務ならん。今本県内に於て夙に其必要を感ずるものは我高鍋及延岡の二ケ所に有之其他に於ても或は近来に至り漸く其必要を感ずるもあらん。然れども未だ之に該当すべき学校の設けあるを見ず其之れあるは我高鍋学校と延岡亮天社の二校のみ。是れ皆旧藩聾より連続し来るものにして実に其地方人士の必要に出たるものなるは疑ふべからざるの事実に有之候。尤右二者の間尚其趣を異にする者あり、彼の亮天社は私立なるも資本に富み授業料の如きは全く之を徴収せず或は之を徴するも867