ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
- ページ
- 28/134
このページは ac_cho_0017-2_takanabe の電子ブックに掲載されている28ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0017-2_takanabe の電子ブックに掲載されている28ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0017-2_takanabe
教育と文化緒方(蓑原)栄一郎関愛治井上正雄宮永英三郎誠三郎第7編森城重雄長友虎治鈴木敬次郎(啓次郎)乾(秀聖〉豊永河野善助大山栄三郎(栄一二)山下好正萱嶋辻雄綾部金作河野寅松大野(三好)平太郎水町熊太高鍋学校唱Eム・唱EA5日間0・mーょ・ハUハU-nJ不明不明ハリ・FhuハU-Fhu0・7以上ハU・4告不明不明不明不明不明以上一一六名学制の実施に当たり中等教育の立ち後れを憂慮し晩翠学舎が創設されたが、それは学制の規定に即したものではなかった。明倫堂の教育を慕いながら漢学を主体とした青年教育であった。明治の新教育が描く中等教育とは越の異なった行中学教育の事始めき方であった。新しい教育というより保守的復古的様相を帯びた教育であった。高鍋学校は同じく青少年を教育の対象にしながら、学制に端を発した新教育の課程に即する教育機関であった。この地区としては最初の中等教育施設であって、県内でもほかの地区に先がけて設立されたのである。866旧藩校明倫堂は学制頒布と同時にその活動を停止し、やがて官費支給も打ち切られた。しかしその校舎は島田小学に充てられ引き続き学校教育に使用されていた。宮崎県政八十年史によると明治十二年六月「旧明倫堂を町村立高鍋学校に改め設置」したと記し、晩翠学舎日誌には同年(一八七九)九月二十四日に「旧明倫堂学舎に高鍋学校開校」を書き残している。校長は田村義勝、修業年限は三年(大泉教育年表)であった。また郷土教育資料集によると「上等小学、変則中学及び小学師範学の三科を置く」とある。明治十一年宮田に晩翠学舎が発足し、翌年は島田に高鍋学校が開校し、両校経営の中核には田村義勝がいて青年の教育指導に意欲を燃やしたのであった。生徒の中には両方に籍を置いて勉学に励む者がいたのは当然である。十四年七月に中学校教則大綱が定められたこともあって、十五年七月二十日、高鍋学校を廃止し、町村立高鍋中学校と改称した。十六年(一八八三)五月宮崎県再置当時の県内の中学はわずかに三校にすぎず、高鍋中学と都城中学が町村立、延岡亮天社は私立であった。これら三校は中学校教則大綱からみると変則的なものであった。高鍋都城両中学校については「此中学校ハ中学校教則大綱一一対比シ職員資産等ノ準備ヲ欠クモノニシテ、到底中学校ノ教科ヲ具フ」るものではなく「教員ノ学力ハ漢学ニ偏スル」ものが多く「適当ノ学校ヲ設置セシメントス」(明治一七・五・一三進達十六年度宮崎県学事年表〉という状態であった。こうした中で宮崎県立尋常中学校が明治二十二年(一八八九)ようやく開校を見ることになる。中等教育の揺らん期にあって財政、教師不足更に中等教育