ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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へられて人格をねったのである。又舎生相互の親密さは突に美しく互に注意し合ひ導き合ふといった調子、ほんとに切瑳琢磨しその親交は終生変らない有様である。当時郡役所は宮崎にあったが郡長が出張して来高される毎に必ず晩翠学舎を尋ねられ県令(知事)の巡視あるとき必ずここに過ぎられるといふ有様で舎生の誇りとした処であったといふ。明治四年廃藩置県以来学制の変あり藩聾も亦その組織を変へ漢学も次第に表へしも高鍋はその後久しく斯文の脈絡絶えず明倫堂の伝統今日微ながらも尚存するは晩翠学舎の功多きに居るといはねばならぬ」と武藤娘一は晩翠学舎の中に記している。明治の新しい教育の萌芽期にあって特に青年教育のおくれを憂慮して発足した晩翠学舎は、小さな私塾ではあったが七年間に百十余名の人材を世に送り、高鍋の松下村塾としての使命を自にこJこ。田芳ナJ1LナJ明治二十四年九月、城勇雄が帰郷したのを機として、晩翠学舎の同窓会が開催された。この同窓会はその後、毎年一固ないし二回聞き長く続いた。昭和三年(一九二八)十月十三日には滅・田村両先生の祭典と晩翠学舎創立五十周年記念式とが挙げられ同窓の人々た。当日各地から集まった者二五名、まず高月の両先生の墓に参拝、午後は高鍋中学校講堂で祭典と記念式を行った。更に夕刻から蚊口浦亜細亜亭で懐旧親睦会を聞いた。この日の祭典で委員の一人泥谷良次郎が祭学校教育文を捧読したが、神代勝文の起草で次に掲げる(原漢文、武藤願一の解読文による〉。文第l章祭維れ時、昭和三年十月十三日、晩翠学舎の弟子等謹んで清酌庶蓋の糞を以て城竹窓、田村其測両先生の霊を祭る、鳴呼先生の徳は山と高く、道一は水と長く、景仰欽慕一日も懐に忘るる能はざるなり。抑明治の初、典章文物多く範を泰西に取り、爾来凡百の事業日に将み月に興り、辺地僻境に詑ぶまで犀序の設あらざるなし鷲。然れども学制の変革、教則の更新に由り、学問の方文芸の途亦随って変じ漢学説く衰へ儒教漸く頚れ将に仁義道徳の説も慢を帰することせんとす君。是に於てか我が晩翠学舎その聞に起り、'経を講じて而して道を聞き、徳を修めて而して文を学ぶの具立つ笑。乃ち先生日夕訴建に臨み懇々として教へ、循々として導き而して弟子の温恭、精を掲して先生に事ふること父母の如く、同窓親しむこと兄弟の如きなり。而して前後門に及ぶ者、郷の内外を聞はず無慮百十有六ベんえん人、各侃鷲として以て大小その材を成すことを得たり会。鳴呼海嶺の鴻思何を以て之に酬ゆることを得んや。想を回らせば乙酉の歳、廃舎の己むべからざるに至り、且爾来同窓多く幽明境を異にすと雄もせんれつうんおう今なお健在する者五十余人、固より諦劣にして謹奥に造語する能はひ・ぞかざるも、然れども亦幸にして梢々一維を解し伝を釈くことを得、縞に調ゆる仁義道徳の説を明かにし因って以て世道人心を正さんことをたま巴もの期す笑、又是れ実に先生の資なり。鳴呼先生なかっせば我が高鍋藩の学府道統の伝絶えんこと久し余。それ誰か肝に銘じて感謝せざる者あらんや。顧うに方今、世態撰季、人情悦薄徒らに旧を棄て新に馳せ或は荒誕の言を弄び、或は危矯の行をなし国家の案寧を妨げ社会の秩序を蒸し以て自ら快とす正局、実に是れ人心惟れ危く道心惟れ微かなるの時、識者の憂憤大息する所なり。願くは先生の冥護に頼り危き者をして安からしめ、微かなる者をして著はれしめ、弟子道を行ひ理に従ひ以て世道人心に補益する所あるを得しめんことを。今弦戊辰、創舎の歳巳卯を匝る星霜正に五十美、乃ち同窓相謀り本日を以て之が記念式を挙げ放に敬しく先生の霊を祭り明か行濠の徴863