ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
- ページ
- 24/134
このページは ac_cho_0017-2_takanabe の電子ブックに掲載されている24ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0017-2_takanabe の電子ブックに掲載されている24ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0017-2_takanabe
教育と文化もとって塾生は自宅の行事に参加した。十二年一月二十五日の日誌に「是日是舎開設以来舎生一同宴会ノ儀ヲ開キ且ツ新年ヲ祝スルヲ為サント欲シ酒宴ヲ高坂楼-一張ル、因テ城先生ヲモ招請シタレドモ事故アリ辞セラレタリ、依テ舎生十五名及義勝、豹蔵トモ十七名亦盛会ト謂フ可シ」とある。十三年一月五日の日誌にも「午後二時開舎、四時頃ヨリ祝宴ヲ開カントシテ洗町永楽楼一一投ズ」とあり、正月休み明け始業当日に新年宴会を聞いた記事である。血気盛んな青年たちだからいたずらもした。例えば小丸に帰る年少生の手を引いて道具小路のほうまで連れて行き、そこでようやく放免したり、域先生の足音を巧みにまねて舎生に先生の到着と思い込ませ皆があわてて玄関に出迎えると、偽りで一杯食らわされ、一同苦笑のほかはない、そんないたずらである。作文の盗作などもあって化けの皮をはがれる例もあった。陰暦九月十三日の夜、日本外史の輪講が終わった後、神代勝文ら数人が庭にいると田村先生も出て来られた。月光清澄片雲もない良夜である。田村先生が「今夜は旧の九月十三夜で不識庵が霜満軍営の詩を賦しこんぴらやまた晩であるがお前たちは琴平山にでも登って月を賞するといいもんの」と言った。そこですぐにそれに決定、河野寅次郎、岩崎重恰、綾部正吉、それに神代勝文を加え、一一樽を買って海老山に登った。その頂で大いに飲み詩を吟じ月明の下、高鍋の町並み、遠い尾鈴、東の日向灘を眺こうぜんめ浩然の気を養った。これは神代の話を武藤麟一が「晩翠学舎」の中に記しているもので当時の師弟の姿や舎生の生活がしのばれる。第7編明治十三年三月城勇雄の帰郷復塾により、体制も整い学舎の経営も落ち着いた。昼間は城、夜は田村が担当し、舎生は学力によって上下の二級に分け、会読や輪講の規則を定め、上級には左伝や国語等を教え、下級には十八史略や文章軌範などを学舎を閉じる教えた。日本外史の輪講には舎員全部が出席した。雨で道の悪いときは、足の悪い城先生を思いやって、舎生たちが先生の自宅に出向いて講義を聞いた。862労作にカを入れたことは既に触れたが城勇維を迎え、開業式を行って五日後の一一一月二十七日の日誌に「土曜日即廿七日兼而約定之通力作ヲ始テ開ク」とあり一六名が開墾作業に従った。域勇雄も現場に出かけ、田村は湯茶番物を携えて労を慰めている。同日の日誌に「以来毎土曜日ニ於テ勤メテ労作ヲ怠一フズ永続シテ他日有益ヲ見ルヲ期ス」とあり、労作を通しての教育に心を配ったことが知られる。明治十七年(一八八四)城勇雄はその子重雄の教育のこともあって晩翠学舎を辞し、五月十日付けで京都府中学校三等教諭に任ぜられ、京都へ出発した。出発の際は、合生全員都農まで見送りに行って名残を惜しんだ。武藤麟一はこの日のことを「晩翠学舎」の中に「先生は懐紙に国風一首を認めて与えられた。都農の里にて晩翠学舎諸君に別るるとて教への子学びの親の別れ路はつらしゃうしの角の山里L一一と記している。滅男総が京都に去った後はまた田村義勝一人の指導となった。舎生も増加し学舎の活動は軌道に乗っていたときだけに、城の転出は惜しまれ学舎にとっても打撃であった。翌十八年四月、学舎は高鍋中学校(後の高鍋学校〉の漢学部として吸収せられ、晩翠学舎としては閉舎となった。明治十一年間塾以来およそ七年間であったが、その足跡は偉大なるものがあった。「先生たちはたんに教科書を教へるといふにあらずして真に親心を以て、身をもって導かれ舎生は常住坐臥の聞にも接けられ訓