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概要

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一、第一本舎ノ主幹ハ従来ノ通舎員重立タル人ノ口上推挙ニ依リ矢張田村義勝本舎ヲ主宰ス尚黒水長造船ニ後盾ノ扶助ヲ願フ筈一、第二舎監柿原季知、柳数太郎、河野寅次郎三名舎員中ノ投票ヲ以テ相定ム一、第三幹事山田重潔、津江両人投票多数ニ依リ決定候一、第四来ル十八日城先生聴礼ノ金員壱名拾五銭宛持参来会学舎各座席ヲ定ムル筈一、第五月謝金ハ:(さきに挙げたので略す)右五条之通協議ノ上約定相済以上のように再発足の準備も整い三月二十二日簡素な開業式を挙げた。城勇雄も臨席し祝辞を述べ別に和文の祝詞を贈った。その一部を掲げる(町立図書館所蔵、句読点なし)。祝晩翠学舎開業詞聞けゆく御代を春ベと咲く花に、競ふ色なく春たけて翠をふくむ松が校を友と契れる田村の大人は僕が年を忘れし友なるが、往年若人達の望にて一つの学舎聞かれしに、四方の学び子日にそひて所せまきまで湊い来ぬ。(中略、倉岡の寓居に自分を訪ね、高鍋に帰って教授して欲しい旨の懇請黙し難く、帰郷したことを述べる)即今己八重測(城勇雄〉を召び迎へ今日なん改めて学び初の寿を行はる学校教育る事とはなりぬ。抑こたび大人の設けの心を聞くに世の中の人心年にそひ日に増して花にのみ成り行くを深く憂たみ心同じき友と議り皆同胞の思ひを成し黄金の如き交りを固め、蘭の如かぐはしき契りを結び、朝な夕な古への聖の道を尋ね過し、豪傑の跡を慕ひ身を修め人を治る事を習ひまた或時は牛を牽き栢を負ひ格を植え桑に培ひ、人々其身を健かにして行末あるは幸にして九重の雲井に昇り大第1章はた賎が田の面に落ち稲かり菜つみ老たらんにも世を浦安く渡らむとの設なりとぞ。鳴呼いみじきかも、威かしきかも。斯る忠やかにいさましき設とし聞けば老が身も昔の春に立ち帰りし心地こそすれ。哀れこの学び舎に侍り玉へる若人達、今日の心を此舎の名に負ふ松の晩翠、春吹く風に移はず、秋降る霜に争ひっ百年かけて改めず、大人の望を遂げ玉はば、其身のみかは国の梁、家の棟と如何ばかり世にあり難き人と仰がむ。あなかしこ明治十三年三月二十三日立花の八重測開業の日がここでは二十三日になっているが日誌のほうは二十二日になっている。御政を与り聞きたらんにも、田村両先生の指導のもと学舎の態勢も整い、舎生も増加した。舎生は高鍋、上江、木城は言うまでもなく川南、都農、美々津、妻、穂北、都於郡、佐土原、木脇、本庄、延岡、福島からも来て学んだ。一、二年で退舎する者もあれば五年、七年と学業を続けた者もあった。途中で就職する者、上京する者など出入りが絶えなかったが、多いときは四O名近く平均二O名前後の舎生が宿泊して学業に励み、そこのようにして城、の中から石井十次そのほか多くの人材が育っていった。武藤麟一は「晩翠学舎」の中で「漢学専門に五ヶ年七ヶ年も勉強した人の修得したものは誠に測る可らざるものがあったろう」と述懐し更に「ここを卒業した人々の立派な人格、深い造詣については先輩たちの夙に承認敬服する処であるが時の宮崎県参事官野村綱翁の如き、晩翠学舎の生徒はしっかりしたものだ、ここの出身者ならば本人に面会などしなくても何処にでも推薦するといって居られた」と記している。晩翠学舎の勉学について記したが、もちろん休業もあった。日曜や祝祭日、舞鶴神社、招魂社、お里回りなど休業しているし年末年始の休暇861