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概要

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教育と文化宗雄、平田右は旧等に依拠候、但田等無之向は五等生と相定候事明治十六年(一八八一二〉は五月に宮崎県が再置発足の年で、晩翠学舎は当時三O名ほどの舎生を収容しその顔ぶれも右の記事によって知ることができる。第7編舎生は学科のほかに剣道の練習も行った。柿原宗敬(津之丞)が青森から帰ったのを機にその指南を願い、学舎の庭で午後の課業後に熱心に励んだ。そのころ剣道復興の機運が強かったせいもあり、柿原に伴われて三納、穂北、木城、都農など各村に出向いて試合をした。舎生はこれを武者修業と称していた。学舎開設の年、十月五日の日誌に「前路掃除、渠端悪草鋤去」の記事が見えるが、塾舎内の清掃はもちろんその周辺の道路、溝などの掃除や修理、草払いなど協力して当たり、更に綾部豹蔵から借り受けた七畝ほどの畑地を耕作して野菜そのほかを作った。経費については、塾舎に必要な備品などの購入は舎生が各自分担して支出した。開塾第一日目の日誌に「担荷、盟、炭焼炉等諸器類弁備ノ為メトシテ舎員士宮名ニ付金拾銭宛ヲ醸シ」とある。また同年十一月十五日には「月謝金弐円弐拾銭即拾壱名分舎員ヨリ被差出候得共義勝ノ素意ニ適セザルニ付尚熟議アルベキ旨ヲ以テ暫ラク差一皮置ク再議ノ上受納スベキ筈」とあり、舎生の差し出した月謝額が多いので再協議を求めている。同月二十二日に「月謝金熟議ノ上壱名拾五銭ニ減少ノ旨舎員ヨリ申添へ治定ス」とあって、月謝一五銭が決定している。その後十三年三月十五日に改正している。「月謝金ハ昼夜共出席ノ人ハ四拾五銭内五銭舎ノ費用トス、午後三時ヨリ出席夜分迫出学ノ向ハ弐拾弐銭五厘内弐銭五厘舎費ニ充ツル筈、右-一依リ謝金ハ四拾銭ト廿銭トノ二区別アリ」以上のように改めた。これらの協議や役員の選定など舎員の意見で民主的に運営された点が注目される。860十二年(一八七九〉七月、城勇雄は倉岡に招かれ高鍋を去った。旧域内新小路に住み、児湯東部の学区取締在職七年に及び併せて学舎のためにそのうん蓄を傾けたのであった。学舎は指導者の一人を失ったため、その後任に綾部豹蔵を頼み快諾を得たので以後、論語講義はその担当となった。十二年七月十二日の日誌に「城先生倉岡へ御越ニ付論語講義綾部老翁へ請托シテ今日ヨリ臨舎講義有之」とある。しかし同氏は老齢と公務のため同年十二月に辞退したの学舎の推移でその後は田村義勝一人で教授し負担が加重された。大泉篤範は「当時先生(田村義勝〉は島田学校の教師であり、第四大区の取締を兼ねられ、更に十二年八月からは高鍋学校が開校され校長の重責をもっていた。先生は公務の合間合聞に来舎され講義をし、輪講の席にも出席された。夜も殆んど毎夜来舎され諸般の指導に当たられた」(史友会報)と記している。田村は年齢的にはまだ四十を越えたばかりであったが病弱の身なので勤務の過重をその精神力で補いながら若者の教育に献身した。その後高鍋学校長をやめ、学区取締を辞し、島田学校専任となったが、同校の宿直もあって多忙な毎日に変わりはなかった。こうした事情の中で舎生やその父母の聞で倉岡の城勇雄の帰郷を懇請しようとの議が起こり明治十三年三月十一日終に帰郷が実現した。城勇雄を迎えて学舎は改めてその態勢を整えることとなり舎員が協議の末、次のように決定した。一二月十五日の日誌を次に掲げる。一、本日舞鶴招魂両社祭礼ニ付休業、尤今般城先生ヲ聴シ候ニ付諸般ノ事件会議有之仰テ兼テ申込ノ舎員中表会諸事熟議ノ上決定候候件左ニ載録