ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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かれた。田村義勝は十八史略と文章軌範を昼夜指導した。例えば午後二時から六時まで十八史略輪誘、七時から十時過ぎまで文章軌範を講義するといった調子であった。城勇雄は論語講義を担当し、家は新小路でさほど遠くはなかったが足の不自由な身で学舎に通って来た。土曜日が講義の日で午後二時から五時ごろまでであった。定例講義以外にも舎生は競って漢籍を読みあさり不審の点を相互に教え合いまた両師に質問した。二人の先生の懇切な教示は舎生の読書欲をますます刺激し勉学の進境は目ざましいものがあった。こうして経書はもちろん、通鑑綱目、史記などが日貧り読んだ。十二年一月からは唐宋八家文読本(日誌では八大家または八大家読本と略称)の講会が始まっている。十八史略の終わった後は元明史略を読んでいる。以上のほか日誌に記されているものを挙げると、左伝、孟子、日本外史などがあり、学力の低い塾生のためには国史略、輿地誌略なども講義に使用された。講義のほかに文会や質問の時間もあった。文会は作文の時間で宿題もあればその時間に仕上げる席上作文もあった。毎週火曜日に文会があり席上文が完成しないときは時聞を延長して厳しく提出させた。作文は当初仮名交じり文であったが十二年二月から宿題、席文ともに漢文に改めた。これは城勇雄の諭示によるものであった。漢籍、漢文による教育重視の考え方がこんな所にも現れている。文題については例えば十二年五学校教育月十三日の日誌に「文題、登高鍋旧城嘘記ナリ」とあってその一斑がしのばれ、塾生たちは相当きたわれたようだ。提出した作文は田村義勝が朱を入れそれを城勇雄に届けて目を通してもらうというしくみであった第l章質問の時聞については開塾後、一日一時間の割で実施してきたが十二年五月から火木土の三日に定め昼夜各一時間を充当することにし、同時に三人、独習蓄について質疑を受けるよう改正している。こうして身につけた学力については定期的に考査が行われ、その成績によって一等から五等まで等級が定められた。五等以外の力不足の者は等外生とした。武藤麟一の「晩翠学舎」から定期試験の記事を次に掲げる。明治十六年七月十九日定期試験及平素の学力ニ…準拠し紘一寸級を定むること左の如し柳数太郎右定期試験及平素学業の得力に拠り旧の如く一等と相定候事田村寛、本庄郁馬、神代栄寿、永友比佐吉、井上正雄、吉野嘉之吉、右同断に付二等生と相定候事四位巌水、太田周次郎、泥谷良次郎、恵利虎象、白尾才次郎、西村亀太郎、一木伺四郎、右同断に付三等生と相定候事宮永英三郎、中元寺長政、岩村加次郎、緒方英一郎、靭彦、坂田右同断に付四等生と相定候事平井於菟衛、永友氏幸、久次、大塚右同断に付五等生と相定候事試験欠席人広保、安松惣次郎、萱嶋諸秀、惟吉、坂田千束、坂田雄次郎、859津江竹原