ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化明治十年の戦乱は南九州を大荒しに荒した。我高鍋も僅かの人々を除く外は旧士族の青壮年の多数が薩軍に与みし肥後に出陣し戦利あらず退却して日向を商より東へ更に北へ走りて延岡付近迄には殆んど降伏して帰郷したのであったが重立った人々は投獄せられた。此間僅数ヶ月ではあったが社会の秩序も破壊せられあらゆる文化施設は荒廃に帰し人々そのよる処を失ひ不安の念に囚はれた。就中学校も自づと廃せられ教育など等閑に付せらるるに至り心あるものは憂慮にたえなかった。併し膿て小学校は復興し少年教、育の方面は漸く其緒についたがそれ以上の青年教育を如何すべきか、当時尚中学校もなき時代である。数年以前迫は青年たちは明倫堂で学んだのが廃藩後間もなく明倫堂は島田校となりそれは多くは少年のためのもので青年たちのための講学研究の機関はない。これを其淵田村義勝先生は非常に憂慮せられ、偶先生の門に集る三四の青年とこのことについて談合せられ一私塾を興さうといふことになり明治十一年八月二十二日、柿原季知、小田知行、恵利今朝吉、矢野大四郎、柳数太郎、手塚国次郎、内田孝忠、山田重矯、河野寅次郎、津江広保、第7編荒川盾夫、永友文吉郎の十二名会合し田村義勝先生を中心として種々協議し舎長及び全舎員の意見で柿原季知、小田知行二名を舎の執事とした。田村義勝の晩翠学舎日誌によると八月二十二日の記事の初めに「午後二時嘗盟約諸生会緊」とあり集まった人々の名を一O名挙げ荒川盾夫、永友文吉郎二名の欠席を記している。塾舎の位置は現在の宮田で田村義勝の弟、三好退蔵の留守宅が空家になっていたのを使うことにした。後にこの家屋は舞鶴城二の丸跡に移築され万歳亭と呼ばれ、秩月種樹の住居となったが当時は城堀の東側にあった。858塾の名称については、当初意見が分かれ決まらなかったので、当時新小路に住んでいた城勇雄に命名を依頼、晩翠学舎と名付けられた。三好邸の庭に二本の老松があり、これにちなんでいる。城勇雄の晩翠学舎記は明治十一年八月二十九日の作であるが、命名の事情が述べられている。「顧みるに木舎庭中に老喬松有り。宜しくとりて以て晩翠学舎と号ひらすべし。宋活文素の詩有り日く灼々たる圏中の花早く発けばかえって先ず萎む。遅々たる澗畔の松、欝々として晩翠を含む」(原漢文)これで分かるように松の晩翠を選んだところに城勇雄の心情をうかがうことができる。更にこの晩翠学舎記の結びのところに「此の舎に入る者、終日っとや乾々自ら強めて息まず、タベはもって其の根に培い、朝はもって其の支を達し、他日輪般の一一願を待ち、廟堂棟梁の用となる此れ余の大いに望む所なり」と述べ将来国家の柱石となるよう人材育成を期待している。学制頒布以後、青年教育の施設としては、明治六年(一八七三〉延岡に設立の私立亮天社、同年宮崎に設立の仮小学校講習所、翌年設立の県きょうぶんこう営宮崎学校、九年島津啓次郎が佐土原に創立した局文費などがあるがその命脈は短かった。加えて西南戦争はこうした教育の萌芽に大きな打撃を与えた。このような情況の中で発足した晩翠学舎の意義は重く、正に高鍋地区における松下村塾の誕生とも言えるものであった。学舎が発足した翌日、八月二十三日の日誌に「当娩翠学舎の教育分欠席ノ学生ノ外悉皆寄宿講読」とある。学生は塾で宿泊し勉学に努めるのが原則で、寝食をともにしながら人生の生き方を身につけていく、いわゆる二四時間教育であった。それは明倫堂の寄宿舎切偲楼以来の教育の復活でもあった。明倫堂の人材養成を敬慕する学舎の授業は当然儒学の教養に重点が置