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概要

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はない。教育はもとより政治経済産業そのほか全般に大きな影響をもたらした。高鍋地区では島田小学を初め、全校が教育の機能を停止した。西南の役薩軍口供書に「五月中旬、坂田諸潔日向地方ノ参軍ト称シ、我高鍋町ニ本営ヲ据へ人民ヲ制圧シ大一一兵金ヲ募ル」「六月六日頃諸潔ヨリ製作所申付ラレ」などの記事がある。右の製作所は弾薬の製作所であって、校舎はこうした軍事施設として使用されたのであろう。学校並びに教育の荒廃の中に、やがて戦乱は西郷軍の敗北によって終結する。県古公文書の中に宮崎支庁そのほかの文書があるので次に掲げる。各区正副区長、学区取締、正副戸長宛各区学校之義ハ区戸長及諸有志ノ者共御趣意ヲ奉戴シ将ニ昌盛ナラシメントスルノ折柄当二月以来ノ兵乱ニ付自然閉校相成実一一不堪きんしゅく遺憾然ルニ賊勢日々蜜盛現今唯鹿児島城山ノ残賊市己ニ付不日鎮定-一可至ハ必然ノ事-一候条各学校従前ノ通開校相成度於区内モ兵乱後諸事難渋ノ義モ可有之候得共一層致憤発開校ノ意見早々可申出此旨論告候事明治十年九月十六日宮崎支庁城山の落城は九月二十四日だから、その直前の布達で学校の再聞を促している。これより前八月三十一日には教員や学校係の者で西郷軍に加わり戦死した者、あるいは帰順者について至急届け出よとの示達が出ている。しかし戦争の傷跡は大きく、学校の再開は容易に進まなかったの学校教育で、十月には次の布達が出た。甲第五十七号県下暴挙ノ際各所ノ学校一時休業実一一不得己ノ事情一一候処学事ノ義第1章ハ一日モ忽ニスベカラザルノ次第一一付明治五年七月第弐百拾四号公布ノ趣ヲ厚グ体認シ士民困弊ノ折柄ニハ候得共抑と教育ハ父母タル者子女ヲシテ開智興産ノ基ヲ開カシムルノ本務一一候条各自奮励裁力学資支給ノ方法及各校開業ノ日限等取調十一月三十日限可届出此旨布達候事但各校ノ内本文之通見込不相立者有之候ハパ其旨委細書面ヲ以申出指図可受事明治十年十月二十七日岩村通俊鹿児島県令このような布達を受けて、高鍋地区の各校も次々に再開され復旧したと思われる。十二月二十日鹿児島県令は宮崎支庁に「今般兵乱一一付各処所属ノ書籍器具等人家-一散在致居候儀有之候テハ不都合ニ付」各学校に直ちに返付するよう文書で指示している(県古公文書)。当時の情況を察することができる。晩翠学舎学制は民情や文化の程度から実施上に種々困難があった。親の負担の増大や貧困からくる無理解、ドレト」m aJ有資格教師の不足、農民の騒擾、木県の鹿児島県併合、西南戦争による停滞など枚挙にいとまがない。しかしこうした悪条件の中で、政府も県も庶民の教育に力を傾け、小学校は設置され就学率もしだいに向上していった。しかしそれは小学教育にとどまり中等教育にまでは力が及ばなかった。明倫堂以来、人材の養成に心を砕いた高鍋としては、こうした創立のいきさつ新教育の傾向に少なからず不安を抱いたのは当然であった。小学教育を終えた若者の教育をどうするのか、ここに大きな教育の課題があった。教育者であり郷土史家でもあった武藤麟一は「晩翠学舎」と題する稿本の冒頭に次のように述べている。857