ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
- ページ
- 14/134
このページは ac_cho_0017-2_takanabe の電子ブックに掲載されている14ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0017-2_takanabe の電子ブックに掲載されている14ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0017-2_takanabe
教育と文化しその地区を前記のように計画したが、学校開縦訓J細一、三五一高鍋上江地区に小学人口明倫堂の学舎を利用した島田小学校ハ校を設立することと第7編が実際にいっ建てられ開校したのかは明確でない。明倫堂の校舎が学制による小学に充当され引き続き使用されたことは前にも触れたが、これが第七番小学であり、島田小学であって地区の中心校でもあり学制頒布以後の第一号の小学校であったと考えられる。高鍋東小沿革誌に「明治六年四月高鍋上江小学校を七番小学区島田小学校と改称」の記事がある。また上江村教育沿革誌に「明治七年平原に上江小学校を設く、川田小学校を合併」の記事があるがこれらを証明する資料は見当たらない。明治六年末、第四大区受持の学区取締をしていた城勇雄から県に提出した教師任命申請書が残っている(県古公文書)。この中に「准五等訓導石井習士口」を第七番小学に発令になるよう推選し、十二月二十四日に発令になっているので当時第七番小学が既に開校していたことが知られる。明治七年九月には第九番上江村落小学の稲倉恒徳訓導が病気退職のため第七番島田小学の山口弘馬訓導を後任として転勤の申請(県古公文書)がある。これによって当時島田の七番小学と並んで九番小学の開校が分かるし西小沿革誌の記事がこれに該当することも考えられる。第八番小学についても県古公文書に次の記録が残っている。第二十六番中学区第八番高鍋村落小学掛第二小区士族准五等訓導国府健蔵同同准五等訓導水町次郎太同同准五位一寸訓導竹原平同同准訓導二等試補陶山戸司志同同准訓導二等試補心得石井守隣右夫々一頭書之通被命度此段申上候也明治七年九月三十日宮崎県参事福山健偉殿852七十二年二月ハ十七年一月五十六年二月二十八年八月十九年城勇雄15武藤東四郎15全文を掲げたが八番小学がこれで分かるだけでなく教師の資格、年齢など当時の村落小学の姿を推察することができる。八番小学の設置当時か設置後間もない頃のものと察せられる。なお同校は高鍋村宮越に設置計画のあったことはさきに触れたが宮越のどこに置かれたかさだかでなえられる。ぃ。あるいは橘瀬小学が明治七年当時八番小学として発足したことも考学校設立に際しては町村から設学伺を県に提出し文部省の認可を得る原則であったが、高鍋では永谷小学の例が残っているので次に記す(県