ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化に力を注いだ。「身心学道・学習指導と生活指導の二而一如・師弟同行」の教育方針を堅持し、静座教育、師弟同行の清掃教育など徹底した実践は県内各高校の聞に一つの指標となり、町民の誇りでもあった。あいさつや清掃など小中学校が徹底し、高校で崩れると言われる中で、本町では「高鍋高校に見習え」という言葉をよく聞くほどであった。「学校の正常化」が全国的に盛んに言われた時期もあったが、高鍋高校は真実の教育を求めて今日も真剣な実践が続いている。第7編高鍋農業高校は昭和二十七年に独立したが当時は、全日制農業科、畜産科、農産製造科のほか定時制があり、本校にはその農業科、川南分校に、農科と被服科、富田分校に被服科があった。農産製造科は三十年に農産化学科となり、四十八年には更に食品化学科と改称し今日に至っている。定時制川南分校は二十八年九月、川南高等学校として独立したが、四十四年四月、再び川南分校となり全日制農業科及び生活科を併置した。富田分校は三十七年三月廃止となった。二十九年四月に全日制農村家庭科を併置したが、三十七年四月全日制生活科を併置するに及んで、農村家庭科の募集を停止した。定時制農業科は三十九年三月に募集を停止した。その前年三十八年四月には新たに園芸科が置かれた。二十九年四月から農業高校は文部省指定研究校となり三年継続して「畑地帯における飼料作物の集約栽培と酪農経営について」というテーマに取り組んだ。この研究成果を三十二年二月二十五日に学校を公開して発表した。次いで三十二年四月からは文部・農林両省の研究指定枝となった。研究主題は「農業高校と改良普及事業の連けいを緊密化するための実験的措置の研究」であった。三十七年四月から文部省指定農業教育近代化促進校(三年継続)となった。このような教育実践を踏まえ三十九年四月、文部省から農業自営者養成高等学校の指定を受ける。農業科、園芸科、畜産科、生活科の四コlスでこれら自営学科の中、一、二学年は全寮制であった。四十六年四月から三学年も加わり農産化学を除く全員の全寮制となった。当時都市への人口集中が強まり、農村出身者が都市のほうに就職し、950農業後継者の減少が憂慮され、その対策の一環として農業自営者養成を国の事業として推進することになり、高鍋農業高校に白羽の矢が立ち、学校自体も国や県の要請に進んで応じたのである。既にそれまで文部省指定の研究を進め、農業教育の施設設備は逐年整備されたが、自営者養成校となったのを機に、実習地の拡張、ライスセンター設置、牛牧農場、果樹園、牛牧演習林、畜産管理室、各実習場など次々に整っていった。四十年十一月、寄宿舎が完成し「明倫寮」と名付けられ、自営学科の全員がここに起居をともにしながら、自立経営農家の推進者としてふさわしい人格と知識技能の習得に打ち込んでいる。恵まれた環境、整備された施設の中で、明倫の伝統を受け継ぎ、農業自営者の育成が堅実に進められている。育英制度の歩み明治十七年(一八八四)高鍋郷友会が東京本郷真もどりのや砂町に「千鳥舎」と称する学生寮を設けた(鈴木馬左也伝)。郷里から東京の学校に進学した学生の便宜を図り学資の軽減とともに都会の悪習から保護しようとしたもので、高鍋最初の育英事業である。「千鳥舎」は坂田秀の命名で学生を千鳥にたとえたものという。転々と場所を変え、六回目麹町区下二番町で閉舎になった。人材育成のために、いち早くこのような施策を講じたところに、深い意義がある。明治四十四年(一九一一)十二月半ば、高鍋町学務委員会が貧困児対策として学資補給会を結成した(宮崎毎日新聞)。当時物価暴騰のため貧