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概要

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商業・工業・金融機関丸・妙法丸、多い時には九そうもいました。清栄丸は米を積んで大阪に行き、帰り便で骨粉や骨粉原料の獣骨やほしか等運んでいました。高鍋の船だけでなく、よその船も出入りしていましたから、蚊口港にはいつも四1五そみ危とうの船が停泊していて、物資の取引が盛んに行われて、湊・上町・中川あたりを中心ににぎわっていました。当時は「蚊口千軒」とその繁栄を誇っていたものです。小丸川の流れは今と大分違っていて、嶋野側の土地が今の中州の一川まで地ひ止。続きで、蚊口側も鵜戸神社の下から五01六0メートル先が川岸で、四尋以上もある深い淵になっていて、二本マスト、一一一本マストの帆船が、いつも四、五そう並んでいました。今はいくつもの発電所のダムで貯水し、川南原開田に水を引いて洪水を調節しているので、小丸川の平常水量がずっと減り、大洪水も出なくなったので川底がずっと浅くなっていますが、小丸川鉄橋ができるまでは御屋敷の稲荷神社の下や嶋野の下まで二本マストのみかん船や石灰船が上っていました-eっすいせん船が積み荷を満載すると喫水線がずっと沈むので、船の出入りは満潮時に行われました。これを潮待ちといいました。船荷の積み降ろしは大ていウインチを使いました。小丸川上流地域は木材の宝庫で、切り出された大きな材木は小丸川を流し下して、阪神方面に積み出されていました。杉材の大きいベんこうざいものは弁甲材といって造船材に使われるので、長さ三間(約六メートル〉のものを、両側面をはつり斧ではつり、積み荷が安定するようにし、松材などは四角材にはつっていました。特に大型船であったり、積み荷を急く時など船を港に入れず、五001六00メートルの沖合に停泊させ、沖仲仕の人が材木を筏に組んで、二人位で船まで漕いで行って、ウインチで巻き上げて都第4章む掛け積みの方法をとることもありました。さていよいよ荷積みが終っても、早速出帆とは参りません。船頭たちにとっては天候待ちが大変でした。真帆・片帆、順風に帆を上げての航海は快適でしたが、天候が急変して、難船する危険もあったからでした。満州事変が起こると景気は回復してきたが、昭和十二年三九三七〉ついに華北事変に発展し、十三年には国家総動員法の発動となり、経済界はしだいに統制が強化され、更に十六年第二次世界大戦に突入してからは、生産・取引・消費の各部門にわたり、民需物資は不足を告げ、全国的に統制が強化された。商業組合は吉田方式の配給機関となり、小売業者の整理が強行され、軍需関係戦時統制経済以外の中小企業は漸次脱落傾向をたどり、応召あり、徴用ありで、経済やみ界はしだいに破局を迎え、非行と知りつつ家族が生きていくため闇売買をあえて行い、竹の子生活を余儀なくされ、手がゆをすすり、芋の葉や野草を煮ておかずを補ったものだった。二十一年十月二日、戦時立法の商工組合法が廃止され、新しく商工協同組合法が公布され、県内一七六の商工業統制組合は解散した。終戦後の商業高鍋商工会議所高鍋では遠く明治=一十七年、東児湯の商工業者がと五香店会集まって高鍋実業クラブを設立していた。大正年高鍋商業会と改称、同六年高鍋商工会に改組、地域商工業の総合的な振興を図り、経済発展に尽くしてきていたのであった。終戦後諸統制が解除されたので、いち早く昭和二十二年(一九四七)十二月三日、高鍋・富田・木城・川南・都仙波・美・々津の各町村を含む、社団法人高鍋商工会議所を設立、(大字高鍋六五八番地、初代会頭黒木武信、会員三三八名)が認可されている(高鍋町商工名鑑)。727前年二月十七日、「金融緊急措置令」「日銀券インフレ抑止のため、