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概要

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代よ司昭和2 ~1 3年4年5年6年7年実数{語13 ~円吋3 1吋28 P1 98銭|27m2銭1 1 8円吋22円。6円03銭6.48 I 7.06 3.10 3.03 I 3.5461100 107 117 41 59していた高鍋一帯の打撃は特に甚大で、第問表で見るように、米価は昭和二年に石当たり三六円三七銭していたものが、(県政八十年史)現i六年には一八円の半値以下となり、繭価も四年の貫当たり七円六銭が、六年には半値以下の三円に惨落だった(県政八十年史)。農家を最大顧客とする高鍋地域の商工業も極度の経営不振に陥り、ついに破たんを来す者も多かった。高鍋町に設立されていた日向銀行をはじめ、県内八銀行が合併して日向中央銀行となり、不況乗り切りに努めたが、七年五月ついに宮崎銀行(現宮崎銀行ではない)とともに取り付けに遭う、未曽有の大混乱となった(第五編第七章第一節参照)。十二年十二月、待望の日豊本線が全通して鉄道交通の便が聞かれ、京阪神地方だけでなく、広く他府県との経済交流が軌道に乗り、他府県に五O年遅れていると言われていた高鍋に、画期的な時代が訪れ、米・麦・繭・茶などの農産物や、木材・木炭・しいたけなどの林産物が有利に商品化され、気候的優位性を生かしたそ菜園芸の門戸が大きく聞かれ、農村地域を商業圏とする高鍋を潤すことになった。第6編昭和初年の米・繭価格の変動米は石当たり,繭は貫当たりの価格第133表ほまえせん一方、二本マスト、三本マストの帆前船でにぎわっていた蚊口港が、急に寂しくなったのは時世の流れで、致し方なかった。年間二1三回上方に仕入れに行って来て商売をするのが普通であったのが、県外から有力商人が進出してきて自由競争が激化し、商業界に一大変革をもたらした。以前は下町が中心だった商店街が、中町・中央通りから上町方面に繁華が移動していった(古老談)。日豊本線が全線開通するまでは、藩政時代の後を受蚊口港の活況けて蚊口港は栄えていた。蚊口浦五、八八九番地都原宗隣に回船問屋時代の話を聞いた。726大正年間、私の家の持ち船は加徳丸といって五OO石積み、今の単位で約七五トン程度の二本マストの帆船、ダンベ1船でした。ダンベ1船というのへさきは和船の古い形で、納先がぷっつり切れのものでした。当時紬先のとがった洋式帆船も姿を見せ始めていました。乗組員は船主・船子で四1五人、(大正9年ころ)米・木材・木炭・雑貨など積んで行って、広島県木の江港で大阪から来る船と交易したり、積み荷によって蚊ロ港の盛況は大阪まで行き、帰り使は岡山あたりや四国路から、石材・石灰・ほしか・小みかん・その他の雑貨など積んで帰り、私の家はその問屋をしていました。順調にいけば年七1八回の往復航海、特に天候に左右されるかいそうぎようことの大きい回漕業でした。蚊口には、このほかに久保田林平の三悦丸、井田友三郎の三光丸、黒木清五郎の清栄丸、そのほか宝生