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概要

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代ようやく復旧完成、無水アルコール製造を再開した。その後二十四年五月通商産業省の発足に伴い、同省所管となった。二十七年(一九五二)十月十一日、政府の企業整備により宝酒造株式会社に移管されることになり、この後一月、現第6編宝酒造高鍋工場は「宝酒造株式会社高鍋工場」として操業を続けることになった。三十一年(一九五六)七月には鞠工場で生産中の国税庁関係の原料アルコール製造場の移転許可を得て、その製造を開始、四十年九月焼酎(甲類)の製造許可を得てその製造を開始し、五十一年(一九七六)には宝焼酎「純」の原酒生産を始め、これに伴い工場内各種施設の拡張・充実を図ってきた。更に五十一年九月からは、宝酒造の敷地内に「宝デベロップ高鍋工場」を設立、うなぎの加工製品の生産も開始している(会社資料)。戦時中のアルコール生産原料は、かんしょと干しかんしょを主体に糖蜜も使用していたので、地域農家のかんしょ増産協力は大きかったが、今日では大麦・主な生産ロ聞及び年産量I原焼醸造酒酎用(ア純ノレ、dノコノレ生産日生産数量(MM)p口口約八OO約二、000約六00とうもろこし・糖蜜・米などに変わっている。(宝酒造会社資料)なお当工場の主要生産品は南九州化学工業株式会社工場上の表のとおりである。南九州化学猛爆撃を繰り返さ工業株式会社れ被害甚大であった鉄輿社は、復旧資材も入手難で、復旧ははかどらず、当分は合金鉄精錬どころではなく、岩村靖以下八名で戦災738後かたづけ管理に当たり、一方独立採算の製塩業を開始して復興を図っていた。新富町に駐屯していた百一部隊の揚水施設の鉄管の払い下げを受けて、蚊口浜から送水管を敷設し、二十一年三月二十日から海水を引き入れて電気製塩を始め、日産一OO俵余を生産。都城、小林地方をはじめ奥地山間部に供給していた。そのうちに工場の復旧も進み、二十二年末からカlパイト生産を始め、二十三年八月五日火入式を挙げ、合金鉄(フエロアロイ)の精錬を再開したが、成績は余りあがらず、鉄興社高鍋工場は廃業撤収のことさえ論議され始めていたハ会社資料)。そこで柿原町長が発起人の先頭に立って一切の準備を進め、宮崎県と地元高鍋町の熱心な働きかけにより、二十七年(一九五二)十二月二十四日、南九州化学工業株式会社高鍋工場の設立がきまった(県会史)。鉄輿社の工場設備を活かし、現物出資と技術援助を受け、資本金五千万円で発足、翌二十八年六月十八日操業を開始した。取締役柿原政一郎、初代社長は高鍋町小丸上出身、元住友化学社長吉田貞吉であった。最初は熔成燐肥の製造販売を行ったが、三十一年(一九五六)には(株)鉄輿