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概要

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押川焼瓦工場その後も猛台風がしきりに来襲して台風銀座と称するに至り、家屋の新築・屋根替えなど焼瓦の需要が急増した。高鍋では細川・田中・増田・押川など瓦工場の黒煙が上がり始めた。押川一美は知人の紹介で二十年十二月一目、先進地淡路島に赴き、焼瓦業者三業者の施設の買収と技術者六家族の高鍋移住の交渉に成功した。翌年二月十七日洲本港より八0トソの帆船に総てを積みこんで出港。荷上げは細島だった。吉水町長の好意で黒谷に広大な敷地が入手でき、新工場の設備が整い、四月一日最初の製品に感激の祝杯を挙げた。製造方式は淡路式といってもなお旧式手動の土瓦手乾式で、土窯に燃料は薪による直燃方式であったが、押川は土練機・整型機など動力機械を導入しつつ、次の研究成果を上げている。耐風・耐震の安定瓦の専売特許1(八OO度1九OO度焼成)商業・工業・金融機関l2半倒燃方式窯の専売特許3ガス式窯と流れ作業の改良ー(九OO度1一、000度焼成〉ー(一、000度1一、一OO度焼成)第4章こうした研究努力が報いられ、特に耐風耐震の絶対的信用を確保し、高品質・低コスト量産に成功し、押川瓦は県内はもとより、北九州方面にまでその名声を博している。(押川一美資料〉終戦後瓦の急激な需要増に焼瓦の増産は対応しきれなかった。そこで急に需要増をみたのがセメント瓦で、大正十年ごろから製造を始めていた菖蒲池の清末五郎や野上宗一をはじめとし、蚊口の井上・本部・春山・矢野などの製造所が戦後には大いに生産を上げていた。セメント瓦もその後進歩改良が進み、宮崎県セメント工業協同組合の協同工場(都農町丸潜にある〉。では新式の粕薬瓦が製造され人気を呼んかわらセメント瓦登場でいる(野上瓦店資料)。でん粉工場第五編の「かんしょ増産とでん粉工場」で既に述べているように、本町では、昭和九年十月十二日、県内最初の石崎でん粉工場の設立を草分けとして、戦前・戦後を通じて多くの工場が生産増強に努め、でん粉工場全廃時代を現出していた。これは第六編「いも」においても述べたところであり、四十年ごろからのコlンスタlチ輸入との対応により、でん粉生産の調整で県内ほとんどの工場が閉鎖されたが、今日なお高鍋では県経済連でん粉工場が、小丸大橋の東杉瀬において生産を続行して、政府の補助を受けながら、地域の農家の便益を図っている。アルコール航空機および自動車などの燃料不足を補うため、国策として国営無水アルコール工場建設のことが決定し、十三年(一九三八)四月二十日、蚊口浦茶頁原五、三二三番地に建工場と鉄輿社設され、近隣町村とともに国策の線に添って大いに精励したことは、前記の「国営無水アルコール高鍋工場」で述べたとおりである。戦後の工業宝酒造株式会社度重なる空襲被害で大打撃を受けたアルコール工737宅金Fl"'5l場場は、復旧資材も入手難であったが、二十三年十鍋工