ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0014-3_takanabe

代現第6編大正の頃の藤原製材所森、宮越の永友と製材の音がうなっていた。終戦後は復興材急を告げ、宮越に浦元、小丸に内田・糸井、鬼が久保の河野、蚊口の田村、都原、日高などの製材所が創設され、朝鮮戦争特需もあり時勢の動きとともに盛衰があったが、高鍋は製材業の盛んな所で第お図でその盛況が見られる。大森貞一は多忙な仕事の手を休めて次のように語る。昔は直径二メートル以上の丸鋸も使っていましたが、昭和十年ごろから帯鋸やチェーンソウが出現し、最近ではツインソウを使い、だんだんとオ1トメ化が進んでいます。原木の割合は杉材が五Owm余りを占め、槍と松がそれぞれ一O%、もみ・つが・まきなどそれぞれ五%、それに広葉樹約一O%余りのようです。地元消費のほかは阪神・北九州方面に移出しています。四十八年当時は全国で一八O万戸の新築があったものが近年は約一一O万戸、外材使用が五五%で、内材は四五%にすぎず、高鍋の年産額は約六億円です。ところが七十年になると終戦後植林の内材の切り出しが倍増すると見られ、外材は関税を引き下げるとのこと、我が国林業界の前途はどうなることでしょ久ノ。醸業ひらペきようなん平部橋南著「日向地誌」によると、明治初期の高鍋しようちゅう町の清酒生産高は二OO石、焼酎四O石となってい造る。明治期においては酒造税制が目まぐるしく変転して、第川表高鍋税務署管内資料のようであった。これは米価変動とも連動した。みようがきんじようのう一きん元年|酒造家は一時冥加金(商・工・漁家などの上納金)二O雨。かんさつ二年l酒造株鑑札|冥加金一OO石につき一O両。734明治同同四年|鑑札を廃止し、酒造免許料一O両。同八年酒造営業税に改め税金二倍となる。同年醸造税にかわる。同一三年造石税に改め税率二倍となる。。自家用酒造り一年一石以内に制限。同一五年O自家用酒免許鑑札制度|年八O銭。同一九年O自家用清酒の禁止。同しようちゅう三二年O酒類自家用醸造完全禁止焼酎が商品化し、焼酎不足、密造酒横行、当時営業目的の焼酎業者少なく、県は資力ある者に焼酎製造業を勧め、既営業者に製造石数の増加を勧奨した(O印は自家用の場合)。明治四十年制定の「高鍋町是」によれば、当時の町内醸造業の生産状況は次のとおりである。第川表町内醸造業生産者数と生産高し~3t清種よう"ゆ酎T酒チ真ト一一一一一産生五戸ノ、数戸戸戸生、五九七石石石五ーノ』、九産升斗升五ノ、升メ口与約四高。度単側五ノ、。升銭1銭銭当