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概要

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夜念仏江罷出候義、是又御停止被ニ仰付-。代官財津十郎兵衛存寄申出候付。新納代官財津十郎兵衛の意見により、盆中に他領から夜念仏の者たちが村々に入り込むことも、領内の者が参加することも禁止することになったというのである。他所というのは、天領穂北か、佐土原領新田かをにいぽん指すのであろう。盆の十三日から十四日の夜、新盆に当たる家の庭に男女の一団が念仏を唱えながら入り込んで、死者の供養のために盆踊りをするのである。その家の者は謝礼の印として、何がしかの酒食のもてなしをすることがある。盆踊りの行事の一つの形である。理由を示していないが、それを禁止したという記録である。盆踊りの仕方にはいろいろな聞き方がある。広場に屋台を作り、屋台のうちで三味線と太鼓に合わせて盆踊り音頭をとると、集まって来た男女がそれに合わせて輸になって踊る。農民ばかりでなく庶民の楽しみであった。特に若い男女が親しみ合う機会でもあった。踊りはそれぞれ地域の特色があったのであろ〉円ノ。八月十八日町踊於ニ藻広毛一上覧役人中弁家内勝手次第。(続実録、巻之=一)高鍋城下の領民の生活また「蚊口踊」や「岩淵踊」を殿様のお目にかけたという記録をしばしば見かける。音頭の歌詞は「高鍋の無形民俗文化財」(高鍋町教育委員会発行〉に伝承されている二一曲のうち一O曲を集録しているが、多くどきくは情事を内容とする口説風のものである。ささすもう笹踊り・角力初めは災害が起こると祈祷が行われ、祈祷に伴って催し事が行われたが、時代が下るにつれて、慰安行第7章事を行う理由づけに祈一聴や供養の名目を使う傾向も出てきた。安政四年(一八五七〉八月上江庄屋ヨリ井手為ニ無難一当月十四日盆踊願出、御免。高城町部当ヨリ水神祈祷当月十五日盆踊願出、御免。(続々実録、巻之二)十月二十日、蚊口湊船出入難義-一付湊祈念之為相撲願出、御免。(同上)でよけかわよけこのように、井手除・川除の際の水神祭や病気の流行そのほかの祈一障の名目で、盆踊り・笹踊り・棒踊り・臼太鼓踊り・角力・子供角力・物真似(芝居)などを催し、農民初め庶民が娯楽を求めようとしていた。これは高鍋近郷ばかりでなく、全般的な傾向であった。安政四年秋、川南登り口村や福嶋中町などからも、同じような願いが出されて許可されている。「棒踊」は下日置水沼神社の祭りに奉納されていたものを、幕末、天保(一八三01一八四一二)年間ごろ、鴫野に伝承され、陰暦九月初午に行われる駄祈薦に催されたものが、現代まで伝えられている。角力については上江切原出身の早助に関する記録がある。名貫川早助文政十一年(一八二八)十月十五日切原村百姓早助、是迄被v下候畠地物一一取かへ都合八俵v被下。右角〈修)(惑〉力執業被ニ仰付一候。病気一一テ罷下り百姓本業出来兼不便ニ思召ニ付力士名貫川紀念碑(切原美年神社〕359