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概要

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世を請負で焼くことを願い出て許可されたというのである。この灰を肥料用の石灰と見る人もあるが、あるいは白壁用の材料と見ることができるかも知れない。農業用に使うほど安価ではなかったであろう。夜なべ仕事は普通の農家はどこでもした。作男を持つ-伐ムなべほどの農家なら作業場、普通の農家は台所の土聞や、馬屋の一隅が夜なべの仕事場になった。古い時代にはいろりに松明を焚き、またはカガリにコエマツを燃やして明かりとした。時代が下ると油とうLみ〈ら皿に菜種油を入れ、灯芯に火をつけて照らした。麓細工・竹細工・鞍作なむしるわらじあしなかり・農具作り。縄網い、俵・茸・かます・草鞍・草履・足半・かるこ・みのすげがさざるかるい・蓑・まぶり・菅笠・ばっちょ笠・しようけ・焦・ひび・うけ・寵類など、必要と工夫によってさまざまなものを作った。女子・子供もしらそれれぞ役割があった。翌日食べる米・麦・雑穀を踏み臼で踏んで精ひげ、あるいは粉に曝いて食べられるように準備し、家族の衣服を白分のつくる手で織り、佐立て、繕わねばならなかった。だんらんしかしそれは苦しみばかりではなく、家族団襲のときでもあり、いろりの焼き芋の味のひとしおうまいときでもあった。ζ高鍋城下町近郷の農民は、ほかの郷の人々より恵まれていた。城下町には、毎月聞かれる六回の定期の市と祇園社と比木社御里回りの祭礼の宮市が聞かれたからである。「城下町の生活」に述べたとおり、朔日・六日・十日・十六日・二十日・二十六日に、上町・八日町・六日町・十日町に市が聞かれ、年貢の制約を受けない物資はなんでも売買することができた。農産物はもとより、その季節ごと近第4編の、山野・河海の諸産物や、それに加工した品、更に農民が夜なべに作った藁細工から専門の細工人の作った手工芸品、諸道具類までありとあらゆる物資が取り引きされたであろう。町人や近郷の農民・工人たちの現金収入のよい機会であった。既に述べたとおり、高鍋城下三郷には、諸士以下士分階層の六七%、概数約四、000人余も住んでいたから、市日の人出は多く、物資の売れ行きも多かったと思われる。才覚のある358農民はそれをよい機会として利用したに違いない。あきな朝商いは気の利いた農村の女子たちの朝食前の仕事で朝商いあった。野菜類は朝夕の味噌汁に欠くことができない。農家の女子たちは朝早く起き出して城下町に野菜売りに出かけた。ざる直径五0センチぐらいの底の浅い平たい皆川に、長い緒を付けたものを天びんの前と後に二つ掛け、皆川には新鮮な野菜を積んで町人街を売り歩いななすた。ね、ぎ・ふだん草・大根・蕪・しゃくし菜・にら・きゅうり・茄子・せり・水ぶきなど、その季節ごとの野菜の朝商いである。城下町ばかりでなく、港町蚊口浦に行く者もいた。朝商いに行く女子たちは、朝商い用の野菜畑を屋敷内に持ち丁寧に作っていた。前の日の夕方用意を整え、朝早く出て朝食までには商い終わって帰って来た。町人街の女子たちと特約の間柄になれば、短い時間で済んだ。人間同志のつながりも深くなってゆき、相互に利便も受けた。わずかな収入であったが、そんな工面のできる女子のいる農家は豊かであった。山手の女子たちは朝商いではなく、罵に薪を付けたり、山の産物を売りに行った。薪は一駄六把であった。これも町人の必需品であった。八農民の娯楽盆続実録、巻之四に盆踊禁止の記録、が見える。安永六年(七月)七日毎年盆中他所ヨリ夜念仏之者、村々入込一切御停止。御領分之者もE南り