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概要

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しゆる椎木村比木神社までの往還に椋欄一、三OO本を植えたのは文政十一年であった。嘉、氷五年(一八五二〉九月には専売の薬草園を始め、慶応三年には薬種の専売制を更に強化し、家老一名を都合(長官)とし、高鍋と都農にそれぞれ専任者二人ずつを任命した。収益率の高い事業は積極的に取り上げようという姿勢であった。櫨の植え付けは早くから行われていたが、品種の選定や良櫨仕立百箇条品種の普及のため、良品種の接ぎ木も盛んに行われたようである。「総仕立百箇条」という写本が明倫堂文庫に保存されている。奥訟によると、安政五年正月、堂前国宇佐郡上田村の上田俊造が編さんしたものの写本であるが、高鍋藩の櫨の手引豊田であったと思われる。櫨一O万本稿え付けがどれだけの利益を生むかということから始めて、植え付け、後ぎ木、害虫、雌雄の判別法、品種、そのほかさまざまの内容であるが、口問績では「群烏」というのが最も優れているという。はるあぜ大正の中ごろには洪積台地、いわゆる「原」と呼ばれる台地の畑の畦や土手には、大きな植の木がなお残っていて、秋には突がなり、その紅葉は美しかったものである。現在残っているのは極めて少ない。務末変動期の高鍋さまざまな努力がなされたにかかわらず、藩の負債はかさんで、安政のころには四万両といわれ、歳入の大半は返済費に充てねばならない状態であった。安政四年(一八五七)十一月特命によって家老手塚邦之丞を都合とし、惣奉行鈴木百助、大坪勝太郎を副とし、勘定奉行に城勇雄、取り締まりに陶山金右衛門と財津十太郎を任じて財政の立て直しに当たらせた。手塚邦之丞はこの人々と合議し、経費節減にあらゆる手段を尽くした末、次の結論に達した。木来経済は、入るを計って出すを企てるのが原則であるにかかわらず、いたずらに貸借を頼むという姑息の手段をとったために今日の窮状に至った藩債の整理第6章のである。借り入れをしないためには、凶年や公家馳走役などの不時の支出のために蓄えをしなければならない。そのためには、債権者を説いて利息の納入を五年間停止させ、その後おもむろに返済を図るのが適当かつおということであった。そして蓄えをするため、福嶋での藩営飛魚漁と鰹の純益三、五OO両および製紙・製機の純益を非常用準備金に充てることにし、毎月三OO両を朱印蔵に蓄えることとした。更に城まわりの年貢の定額三分の一を蓄えるとともに、高放に年貢倉庫を建て、石河内と川原の年貢は貯蓄用とし、玄米でこの倉庫に蓄えることにすれば、三年もかかれば大略目標を達成できると考えた。しかし、二年目に公家馳走役の幕命があり、結局五か年の苦労の後目標を達した。竹窓年譜によれば財政通の財津十太郎最も功ありという。十太郎は家老手塚邦之丞、奉行鈴木百助とともに上坂して活躍し、多くの債権者と折衝した。債権者たちは十太郎の至誠と行き届いた計画による説得に感じ、債務の新古によりその利息を減ずるなどの処置に応じ、ようやく藩財政は明るい見通しがついた。域勇雄の書いた「財津先生小伝」に、戊辰戦争に高鍋藩兵がほかの藩に伍して供給に乏しくなかったのは、専ら財津十太郎のこの処置によると書かれている。しかし、封建制社会としての幕藩制度の経済機構が、時代の趨勢に対応できないところから起こっている経済的な困郊であったので、個人の力で解決できることではなかった。後で述べるように、高鍋藩は明治元年に藩札二五万貫文を発行している。財津十太郎は後に明倫堂教授となり、総奉行となっている。277