ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0008-3_takanabe

何月期日五人組連名月番印月番印形弁旅勤留守前同断。流産死体或ハ出生三日ヨリ内死去之向ハ早速養育方へ届出候事。養育方宛ついたちこれは間引きの悪習をなくするため、五人組に月番を置き、毎月朔日に五か月になった妊婦と、前月の出生者についての調査をさせ、養育方に届け出をさせようということになった記録である。これに見られるとおり、五人組は連帯責任を持つ共同体であり、相互監視者であり、庶民を厳しく律するものであった。七農民の才覚生産の増加、生活の向上を求めて農民は工夫をこらし、才覚を働かした。肥料についての工夫、現金収入の苦心、生活用具や農具の改良などにそれが見られる。高鍋城下の領民の生活生産の増加に肥料は欠かせない。耕作には馬が多く、はいせつしきわらたいひ牛は少なかったが、その排植物や敷藁は堆肥となり、増産に欠くことができなかった。近代のことであるが、石井十次が子供ふんのころ馬糞を拾って農業の手助けをした有名な話がある。「やしねきり」も肥料作りの一つである。田の肥料とする雑草雑木の若葉若芽を切りにてんか行くことを言うのである。「やしね」は「ゃしない」の転詑であろう。人糞尿はもとより大事な肥料である。城下町の町人は排世物の始末を農民に頼み、農民はこれを増産に利用した。町人と農民との持ちつ持たれ肥料第7章つの関係が生まれ、農民は労力や農産物を提供し、町人は金や物品を供給するというように、従属関係ではなく、相互扶助的な関係もできていたと考えられる。明治になってから後のことであるが、旅寵屋や飲食店の排世物は年間嬬米一斗と言われたという(小田春吉翁談話)。いわし海岸は近く、鰯などの漁も多く、魚肥も使われた。宝暦十二年(一七六二)十月二十五日郷中江鰯買調用赤、拝借御免之処、鰯ハ作方為ニハ相成候へとも、拝借上納百姓迷惑仕様子ニ付、拝借御免不v被v下候様、代官ヨリ申出、其通ニ相成ル。(続実録、巻之一)とあるのは、鰯を魚肥とするための費用調達に藩から赤米を拝借できることになっていたが、鰯は魚肥として作付けに役立つけれど、赤米を拝借して上納するのは、百姓にとっては大きな負担となって迷惑している者が多い。拝借は許可しないほうがよい、と代官が申し出たのでそのとおりに決定されたというのである。融資の方法に問題があったのであろう寛政五年(一七九三)一二月二十九日、福嶋都井郷黒井村百姓中ヨリ田畑肥用魚子致方網一帖御定之運上ニテ御免。(続実録、巻之八)回畑の肥料用の魚を取るために漁網が規定の運上で許されている。「新納代官目安」「野別府代官目安」に「陸挽網」「まかせ網」の漁網へきながたにが一定の運上で認められている。陸挽網は地引網ともいい、日置、永谷、堀ノ内の浜で行われた。融資を受けるより網を持つほうが有利であったのである。元禄六年(一六九三)四月二十一日かき灰高鍋町八郎兵衛又兵衛請ニ焼度願出御免(拾遺実録、巻之二)357きゅうと見える。牡傭は現在も高鍋名産の「尤なる物」であるが、そのカキ殻