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概要

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世出し、近ゃから万民生子を捨事弥以御制禁候。尤百姓子大勢生れ生育難一一相成一族ハ三人目より十歳迄之内、相応之御扶持可v被ニ仰付一此旨以v前被一一仰付一候得共、其以後願出候ものも無ν之、自今己後左様のもの在ν之候ハ、不ニ捨置一願出可ν申候。右之趣下々心得違無ν之候様、頭役之者、兼て得ニ其意一、御恩旨無ニ停滞二統相通候様可v仕事。と悪習を禁止し、諸百姓の子供三人目から一日赤二合ずつ、島地物(麦)は三合ずっ、二口聞の内いすれかを支給している。現在の児童手当に類する制度を設け、明和二年十一月には双子に対する扶持を与えるなどの施策もとられた。その後、寛政三年(一七九三)正月の法令改正や、天保十五年(一八四四〉八月の法令の改正にも、懇切にしかも厳しく諭し、かつ禁止しているが、日常の生活と結びつく事がらのためか、人口の噌加は困難であった。「城勇雄日記」によると、明治三年二月六日、五人組月番に毎月五か月自の妊婦を取り調べ提出させるようになったと記している。妊婦を調査することで間引きを防止しようとしたのである。藩政時代の経済は農業生産を基礎としていたから、農耕用の牛馬為政者は農政を重んじ、農民は増産に工夫をこらし、才覚のある者はいろいろなことを考え出した。牛や馬を使い、肥料を作り、農具合」改良し、諸道具を考案し、改良した。本藩では慶長十四年三六O九)野別府岩山に落直営の馬牧を聞いたのを初めとして藩直営の九牧のほか、飛地福嶋には、里牧または百姓牧といわれるものが八十余あり、盛んに馬産が行われていた。初めは軍馬~4編とするためであったであろうが、しだいに農耕に用いられるようになった。宝暦四年(一七五四)閏二月八日、新納・野別府代官泥谷浅右衛門の存寄の第九項に354百姓牛馬所持不ν致候者、御駒代之内より六貫目御借ハ貸)被v成、十年賦御免之事と言っている。百姓で耕作用の牛馬を持たない者に購入費六貫文を貸与し、一0か年年賦で返納することにしてやってくださいというのである。また、安永六年(一七七七〉六月十七日、新納代官財津十郎兵衛(後の明倫堂教授)は山民事ハ牛馬ヲ以第一と致候処、近年馬高直一一相成、貧困之者ハ馬ヲ失ヒ候得ハ難ν調。依之百姓得不v仕者有v之候。一軒潰候得は外百姓江役目掛、惣百姓難義-一相成、自然田野も荒候様相成候。他所出馬固御停止被ニ仰付一候得ハ、御駒井庇癖馬ハ他所出御免一一付、庇癖申立他所出致、御領内馬少候間高直ニ相成候。庇癖馬-一テ相応用立候問、貧困之者ハ庇癖馬-一テ相済候。依之以後一批癖馬共一二向御停止被ニ仰付一度。(続実録、巻之四)すなわち品業には牛馬がいちばんたいせつですが、近年は馬の値段が高くなり、貧しい者はいったん失うと買い直すことができず、百姓を続けることさえできなくなります。一軒つぶれるとほかの百姓に迷惑がかかり、自然田畠も荒れてしまうことになります。それで他領に馬』』占臨を売ることを停止してください。現在は小形の馬(五尺以上駒、六ii尺以上馬)や庇馬や癖馬は他領に売り出してもよいことになっていますので、抗馬だ癖馬だと言い立てて他領に売り出しているから領内の馬が少なく、値段が高くなっています。貧困の者は庇馬でも癖馬でも役に立ちます。よってこの後は庇馬癖馬も他領売り出しを停止するようにしてください。