ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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うのは無芭種であったからであろうといい、「早稲凶作シラズ、赤米ハ山添泥水又ハ水源必ず-一適久」という高橋利兵衛の言を引き、更に「本草綱目」の記述を説明して、粒形は細く小さい。茎葉はよく繁茂し、早熟(六七月収v之〉で多収、脱粒ごく易である。飯にすると、釜殖歩合が大きく、粘り気が少なく、味は淡白で、消化され易い。と記している。言い換えると、早くたくさん取れて飯にしたとき、量は増えるがまずい、ということであろう。通常の収穫があっても不足がちな食岨俄であったから、災害でも起こればたちまち食糧不足となった。元禄十五年(一七O二〉二月三日に、野別府百姓共椎樫之実拾ひ、飯米のたしに致し候。右山にて以来炭山御免なされず候段、仰出さる。百姓願に付也。(拾遺実録、巻之四、書下し文)しいかし野別府の農民は椎や樫の突を拾って飯米の足しにしていたのである。ききん享保十七・八年(一七三二j一三二)は全国的な飢僅であったが、十八年正月高鍋城下の領民の生活郷中へ御堀菱笑取御免、尤狼一一無之候様御門番之内壱人ッ、左右へ召置。(拾逃笑録、巻之八)ひし城堀の菱の実取りを許したが、混乱しないように門番に整理させたというのである。このときは藩もさまざまな救済の手段を尽くしている。一日子保十七年十二月二十二日昔一大々津飢人有之ニ付、村山貞左衛門被v遺、及v飢候者相改直ニ仮証文-一テ男女共一二日ニ赤一合ッ、来正月二日迄十日分ッ、相渡。御第7章領分中間断。(中略〉独身者ハ一日壱合、家内四人以上ハ何人ニテカまモ三十日ニ士宮斗限リ、三人以下は良当リ一日壱合之積也。徒士以下は壱軒米弐斗ッ、、足軽以下は赤壱斗ッ、御借(貸)被ν成。(拾造住〈録、を之八)このときの災害は大きく、落では幕府から金三、000両を借り受けかんなんて難難を乗り切るため努力し、幕府も呉服橋御門番勤務を免除した。前記の明治二年弁官に提出した調査から、各階層別の二戸当たりの家族数を算出してみると、第お家族数と労働力表のとおりである。出家は平均家族数は五人であるが、その家族構成は、夫婦に子供二人、年寄り一人というのが標準的な構成と見てよいのではあるまいか。少しかつてな想像を付け加えてみると、「人生は五十年」という言い方はつい最近まで言われことであるが、これを基準にして家族の構成を考えてみると、一人の男性が二O歳で一八歳の女性と結婚して翌年第一子が生まれ、二年後に第二子が生まれたとする。第一子が一八歳になったとき、その男性三九歳、妻は三七歳、六O歳前後の年寄りが一人という明治2 ~1三階数人数青1[;ゴ= 434 2, 097 4 . 8人組外以下1, 313 6, 415 4.9"'F 1上284 1, 073 3.8浮世人等805 3, 447 4.2百刻4, 650 23, 434 5.0水主1, 107 4, 731 4.3/IJ人422 1, 907 4.5総計l ~I 43 , 084 1 4. 7階層別家族数第33表家族構成を考えることができるとけい思うが、無稽な想像ではあるまい。ともかく一家の労働力は少なかった。しかし農民は労働力の増加より、家族の増加を心配した。子供の増加は、出費を増し、労働を妨げ、乏しい食糧をいっそう減少させた。「へシ児」や「間引き」と呼ばれた棄児の悪習のあったことは人の知るところである。宝麿十二年(一七六二)十月、法令を353