ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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世ふたのはかくは有まじきと見るに、垢っかぬ二布(ゆもじ)をせしのみにて、娘小児に至るまでも裸にて、近郷の一里ばかり有る所へ用事有りて行にも裸身にてたばこ入・鼻紙入などを二布のひもにさしはさていみて行事なり。初て行合ひし時は、目なれざる鉢ゆへにおそろしく思ひしほどなりき。すべての婦人耽しきといふ事はさらに知らぬ駄近第4編なり。家居は一家として上方中国筋に建しゃうのきれいなるは在々においてはさらになき事にて雪隠などは家かげに建て、壁もなきとりはなしの聞なり。ことごとく記するに不及。是等の事にて国風を(西遊雑記、巻之三)察して知るべし。当時の人の見聞だけに参考になる。しかしこの次に「城下ちかくなればさほどにもなく」と、延岡のことを「よほどよき町にて」と書いているから、小藩とはいえ高鍋城下近くはこれほどではなかったかも知れな、。、LV農民と同じ地域に住む地方取りの下級武士も農耕に従事したが、武士階級と農民の生活は違っていた。大約年貢は収穫の三分の一とはいうものの、多くの雑税、諸種の負担を合わせると残るところは少なかった。米にしても真米は年貢として上納し、あわきぴそばささ残るところは何がしかの赤米であった。変・粟・黍・務麦・大豆・大角豆げ・小豆・から芋・里芋・そのほかの野菜類・海藻類・魚類は魚肥も作れるほどだから割合多かったといえよう。川や池でもよく捕れた。肉類いのしししかうさぎは猪・鹿・兎・鳥など手に入ることもあった。拾遺本落実録、巻之九に熊を打ち取った者に米三俵赤二俵の褒美を与えると記録されている。高鍋近くではないであろうが、熊もいたようである。生産も加工も自給自足であった。食べ方も家々で千差万別であった。農民の食物加工の方法も用具もそれぞれの知恵と才覚が新しいものを生み出したにそれらがさまざまな民具として残っている。穀物も食べるまうすっきひきうすでには幾つもの工程があった。踏み臼、掲臼、挽碓はどこにもあった。コシキやセイロで蒸し、釜で炊き、鍋で煮る。因子を作って黄粉をまぶそばきりむるやたおもとこうじし蕎麦粉を担ねてゆでて蕎麦切を作る。室屋から種を需めて麹を作り、みそしようゆしようちゅう味噌・醤油を醸造し、ときにはモロミを作って濁沼や焼酎を造った。たくあん沢庵漬けは大事な副食であった。どうしごだごさんごめし五合すし、四合団子、三合飯、違いない。352にどがゆいちごずしい二合粥、一合雑炊。満腹感を覚えるためにはスシはおいしいから米五合ほどが必要、因子もおいしく米四合分が必要だし、米t土メhQで事粥足なりらる二、合とのい米うで!戯ざれ雑言Z炊飯なら三合、なら苧や野菜など多く混ぜるから、である。朝は味噌汁に漬け物、昼は漬け物、夜は味噌汁または醤油の汁、ときに芋や野菜の煮っころがしという献立はよいほうであった。正月・五節句・盆・彼岸・年忌・祭りには、豆腐・油揚を作ることがあった。主食に真米を食べることはなく、赤米が主で、雑穀も多かったと思われる。赤米は高鍋藩では、真米に刻してどのくらいの割合で作られたか明らかでないが、相当量生産されたことは、明和六年(一七六九)千手八太郎廉斎が萩原蔵方をしていたとき「扶持方三人扶持より三ケ一赤渡之萄」と上申したことが「続実録、巻之二」に記されているし、また農民ぶやくが夫役に出た際の支給飯料や、諸郷納物の際支給される夫飯米はすべて赤米であったことからも明らかである。元来赤米は、高鍋では「とうぼし」と呼ばれていたが、嵐嘉一著の「日本赤米考」によると、「唐法師」「唐穂青」と書き、「法師」とい