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概要

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く、華美になることを戒しむれば足りたからであろうか。明和三年(一七六六)五月二十四日郷中町浦津の者形付停止。是まで所持の品は、胸襟掛け大きさ鯨尺二寸廻り黒印付候様、家中若党帯刀の者形付苦しからず。(続出品〈録、巻之二書下し文)と定めている。また、天保十五年(一八四四)八月改訂の「諸士制度」γ」今ι、郷中町浦津小役之者弁駕之者・小人・浮世人・百姓・町人・家中被官・召仕妻子-一至、迄、絹物ちらし付毛織之帯、越後縞類無用、粗相之形付、高官縞類、弁紋所付候義、且糸入木綿、帯勝手次第可v致=着用一事。高鍋城下の領民の生活第7章附。袴在合粗末之口問可ν着率。と定め、華美にわたることを禁止している。しかし、禁令の対象となる豊裕な農民がどれだけいたであろうか。自給自足(部分〉の時代であり、銀銭の収入の乏しい農家わたの女性は、棉を植え、糸を紡いで機を織り、着物に仕立て家族に着ぜねばならなかった。織れない者は頼んで織ってもらかみこいその代わりを労力で返した。紙子は厚かきしぶ紙に柿渋を引き、乾かしてもみほぐし、露にさらして、臭みを去り衣服に仕立てた。「紙子一衣」は貧しさの代名詞であ'レeつた。形付きの着物や縞模様の着物を着る者は、曲豆裕な農民であった。高鍋図書大名行列図館所蔵の大名行列図に見られる先発隊の荷運び人足が裸同然で拙かれているごとく、春夏の季節には株同然の生活の者もかなり多くいたのではあるまいか。貧困のゆえに、冬季練同然の農民に木綿を調え与えた次の記録が見られる。天明八年(一七八八)十二月二十四日(然〉野別府川北川南中通之内、至テ凶究百姓一向衣類知県v之、裸同前ニ付、先達テ平田浜江流寄候船帆落札銭五拾五貫八十六文ヲ以木綿相調被ν下、返納は指杉等ヲ以連々上納候様被一一仰付一。(統実録、巻之六d陰暦師走の二十四日は、南国日向も相当寒い時期である。困窮のため傑同然である者たちに木綿を買い与え、返納は山林に差し杉をして労力でお返しするというのである。「西遊雑記」は古河古松柏引が天明二年(一七八二)九州各地を旅したときの見聞記である。日向固には豊後国竹田の岡城を見た後に入っているから、五か所から三田井を経て延岡に至る見聞と思われるが、農民の服装などについても触れて参考になる。日向の国は西のかた肥後界にて験山折重りて、国人何れに尋聞ても国の界を知れる者もなく、世云隠れ里、肥後の米良山・五ケ圧といふについムきし深山なり。人物言語も賎しく、豊後を下固と思ひしに今一段劣りし下々固なり。海辺には平地の所も見ゆれども、西のかたの山分け入りてはさらに平地なく、万物至て不自由の固にて、因不相応に人もすくなき故に他国の人を買取て下人とする園風有り。夏月に至りては下民残りなく裸身にて、男子はいふに不及、婦人紺しようや一村の里正の女房など351にて染し木綿下帯ばかりにて居る事なり。