ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
- ページ
- 82/92
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている82ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている82ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0008-3_takanabe
世食無カラシムと。、裂とク携フル所ノ酒食ヲ分カチ与フ。感泣セザルナシ。近凶歳でもない通常の歳の昼食の弁当に一粒の穀物もなかったというのである。このときの農民は一般的な農民でなく、特に貧しい出民であったかも知れないが、農民の生活の一斑をうかがうことはできよう。台風の常襲地帯であるために、風除け、日当たりを重農民の住居んじ、山手であれば森や林を背にし、南の聞けたところに屋敷を構えた。傾斜地なら南斜面を選び、飲み水と風除けに気を使った。低い地勢の平地なら洪水の被害を免れやすい小高い場所を選び、錦竹薮を巡らす屋敷が多い。たつみまじうしとらひ叩じさる巽か真風が最も強い。次が良、坤に回れば収まる。(巽は東南、良は東北、坤は南西)第4編これが台風という言葉も性質も知らなかったころ、暴風雨について言たつみうしとらわれる戒めであった。巽(東南)か、艮(東北)に防風のために、樹きんち〈木か錦竹を植えた。錦竹薮は今も残っている。わら住居の屋根は萱葺きであった。萱が乏しいと小麦藁でふいた。農民住家の具体的な記述を見ることができないが、小麦藁で屋根をふいた故老けんげんの話によれば、母屋が二聞に三聞の屋根をふき、隔をつけるとりっぱな農家になるが、それでも小麦藁が五OO把は要る。そして六・七年目にふき替えるという(高鍋町牛牧の古小路氏談話)。それも「もやい」とか、「かてり」という交替で労力と麦藁を提供し合う仕方でふき替える。馬屋・納屋・作業場などを備えるには広い敷地も必要である。昭和四十八年三月宮崎県教育委員会発行の「宮崎県の民家」に高鍋藩時代に建てられた農家の調査が載せられている。藩政期の山民家の状況を知ることができるので掲載させていただく。説明文中「良家A3型」というのは、同調査の分類法で、部屋の間仕切りを梁行方向にとり、建物の規模によって杭に部屋数を増してゆく建て方で、県中央より以北に分布するものを「農家A型」とし、「3型」は部屋数の三つあるものをいうのである。高鍋地域に適例が無いのでやむなく川南地域のものを挙げる。藩政時代には同じ高鍋領内で隣接し、離れた地域の例ではない。農民が二戸を構えるのにどれぐらいの費用が要ったものか、万延元年(一八六O〉一月八日福嶋百姓良八が新電取立用金二両を支給されたが、暮らしが立つようになったから、金子を返納いたしたいと願い出たほう.ひのは殊勝なことだというので褒美を与えたという記事が「続々実録巻之五」に出ている。また同書一巻之六、文久元年十一月二十三日の項に、「組外以下諸奉公人の二男三男弁浮世人が百姓勤をなし一家を立てる者には、打開二反弁普請用木材を支給し、小頭支配を命じ」、「百姓二男三男弁浮世人、町人又は被官が百姓勤で一家を立てる者」には、っかいうま普請用として木元弁金子壱両、仕馬一疋代金士宮両。を支給したと記されている。350「新納代官目安」に、「百姓類焼之節ハ」として、建築資材の支給基準を示している。火急の際をしのぐ最少の資材であろう。百姓類焼之節ハ小丸太三拾本。長士宮丈より弐間迄。末弐寸より六寸まで。木元弐一肩一。中唐竹三十本。小唐竹六十本。内竹五東畠地物四斗右無代銀ニテ被ν下候。尤火元弁寺院中其外浮世人、被官へハ竹木買料ニテ被ν下候。畠地物ハ不ν被ν下候。長民の衣服についての記述も少ない。南国であり、藩領はいずこも気候祖和で、冬季でも比較的過ごしゃす農民の衣服