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概要

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猪・鹿の獣害もひどかった。作物の獣害を防ぐために狩りをすることを作狩といった。安永八年十二月朔日、椎木上山猪鹿多、作狗被ニ仰付一。四組之内一組坂田平右衛門、一組柴垣説字、一組内回助左衛門、一組は財津十郎兵衛、諸土中十八人被ニ仰付一。(続実録、巻之四)椎木上山というと現在の西都児湯清掃センターの辺りである。市之山の牧場は藩直営牧場で、宝永六年(一七O九)には琉球馬を入れ、宝暦十一年には馬の改良のため、薩摩から買い入れた母駄七頭を入れたりしすみかたのであったが、猪・鹿の住処になり、農作物を荒らし農家の迷惑となり、子馬も少ないというので、寛政元年(一七八九)九月廃止し、父馬母駄はすべて都農の岩山牧へ移したほどである。獣害と作狩ムノ\農民の生活高鍋城下の領民の生活明治二年十月、藩知事から弁官あて提出した「高鍋落文武職制戸口租税等調」に挙げられている「従来支配総高七万九拾五石」を人口四万三、O八四人の一人当たりに計算すると一石六斗二升七合で一、人一日当たりの米穀量は、わずかに四合五勺弱にすぎない。しかしそれは単に高鍋藩ばかりではなく、江戸時代の社会における全国的な現象であった。むしろ高鍋藩は、佐藤信淵がその著「経済要録」に「今の世に当て、侯国財用富譜なせる侯国は、先づ芸州を以て第一とし」と述べ、これに次ぐ富裕な固として尾陽、筑前、長州などとともに高鍋も挙げているとおり比較的に豊かな藩であった。「宮崎県の歴史」(日高次吉著)に、明治十一年に調査された明治元年現在の報告に基づき、諸領の人口数から、一人当たりの米穀量を割り出した第泣表が掲げられている。テ乙これによると、領民一人当たりの米穀量は高鍋が最も高く、延岡は相第7章明治元年旧諸藩草高旧諸藩名I明治元年報口2古同I領*'=民1穀人当量り石石延問60, 450. 266 0. 590高釧69, 822.435 1. 730佐土原37, 060.590 1. 481飲JJ巴65 , 486.631 1. 433鹿児島157 , 132. 199 1. 519米良・椎葉1, 112, 839 o.126天領26, 278.212 1. 0161. 192違いに少ない。著者は、「もちろん公称備考鹿児島とあるものの中には都城をふくんでし、る。(宮崎県の歴史〕高と実収高の差など種々の点を考慮しなければならず、この報告をそのまま信用するわけにはいかない。それでもこの諸第32表旧領草高表は領民の生活の一端を物語つているといえる。」と述べている。この調べは人口も草高も明治二年の調べとは違っていて、領民一人当たり米穀量は少し高くなっている。しかし、それでも一人一日当たりの米穀量は四合七勺にすぎない。農民の諸負担など考えると農民の生活は極めて厳しいものであった。高鍋藩の黄金時代を築いたといわれている第七代藩主種茂の記念碑に次の記述が見られる。記念碑は高鍋高等学校の前庭にあり、元明倫堂教授日高誠実の撰文である。(訓読、原文は漢文〉こAJL問。ゐ:コ嘗ツテ賠ヲ郊外一一放ッ。州制ス者ヤメズ、田畔一一行庇(弁当〉有ルヲ見テ、侍者一一命ゾテ試ミニ之ヲ開カシムレバ、盛ル所皆軒こ〈りゅうじゅ〈しりゅうていえきえき一穀粒無シ。公、熟視流梯シテ日ク、農夫コレヲ食シ終日役々タリ。誠二アハレムベキナリ卜。先ヅ白ラ之ヲ争メ、侍臣ヲシテソノあまり余ヲ食ハシメ、刺ス者ヲ召シテ日ク、予等汝ノ食ヲ食ヒ汝等ヲシテ(三五O頁へ続く)347