ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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也-十四日比木社へ御雨乞の為、殿様御参詣の節、生魚一折柏休三好郡太左衛門。御祭文読み手塚武八郎相勤む。文は朱子文集中に準じ相認可O蛇ケ淵に於て小船帳一献耐え物積みこれを浮かぶ。唱文これ在り。代官井手方詰諸庄屋・町浦津乙名役召連れ罷出づ。O鳥井レい一\,一尾判明抗。御名代山田隼人、添役中村甚五郎、生魚添使持ち出づ。祭文、代官千手八太郎読む。野別府庄屋共相詰む。右三所一時に取計らうの心得なり。O南門南戸を閉じ、北門北戸を聞き、大火を禁じ、雨を賜えと相唱候様、一統へ御触これ在り。三日の間御祈願、比木社へ御参詣。しんし厳粛、真撃な祈願祭の様が伝わってくる気がする。幸いにしてこのときは三日後、藩主種茂がみずから尾鈴山頂まで登って祈願した効があったのであろうか、藩主一行が帰途に着くころから小雨が降り始め、川南はいぜん垂門まで来ると柿然として大雨になり、一行はもとより、落を挙げて喜んだ。同時に明君種茂の名も高まった。近第4編害虫の被害も大きかった。苗床に発生することもあり、成長期に「さばい」が大量発生することもあった。「さばい」は「ウンカ」のことで、高鍋地方では「サベ」という。巴Oハ島切、r九a'盤の大発生もあり、北条という害虫の発生したこともある。肱止の名は見ないが、それもいたであろうが、頻繁に行われた「虫送り」の虫は「さばい」のことと思われる。(書き下し文)虫送り天明二年(一七八二)は害虫の発生が多く、「続実録、巻之五」に害虫に関する記事が多い。領内の寺院や神社で「虫祈一時」が頻繁に行われ、寺社の「札被ν下」と書いてあるのは寺社が「虫除け」の「札」を発行したのであろう。同年七月十三日「虫送り大筒打」の記蔀がある。十三日虫付に付、虫送り二手仰せ付けらる。静一片山一手官)田村五郎治、大坪宇兵衛、中小姓・徒士十五人。大筒打手水町元右衛門・吉田猪兵衛、太平寺揃、藻広毛迄、大筒四ケ所にて打つ。郷中軒別に罷出で、田坪へ入込み丁寧に追払う。太鼓・鐙打たいまっち、夜は松明にて今日より十五日迄昼夜。一手は都合間野与一左衛門・神代貞之進、中小姓・徒士同断。大筒打手蓑原弥七郎・垣原新次右衛門、上江揃、中嶋・小丸後・洗井・因幡脇・道具小路より古湊迄、大箇四ケ一所にて打出す。(続安録、巻之五)二手に分かれて、大砲を打ち、太鼓や鑑を打ち鳴らし、夜は松明の列を赤々と連ねて虫送りをする機は、想像するだけでも、赤く燃え立つ松明の火影に引きつった農民の顔が浮かび上がりそうで悲壮感がある。神仏に祈り、虫除けに寺社の札をはり、鐙・太虫付回の刈り上げ鼓・大筒・松明で虫送りをしても効果は無く被害は広がる。刈り取るしかなかった。(一手の長346(書き下し文〉廿四日、両代官郷中見分の処、虫付候回坪一夜の内に喰つぶし候。一昼夜も召し置き候ては一向用立ち申さず候問、右鉢の旧坪は直に刈揚げ仰付られ候の様申出づるに付、篤と御吟味、軽からざる惑に付、中小姓・徒士の内、日置・三納代・長谷へ六人、椎木・高城・持団・鴨野へ六人、中鶴・蚊口四人、上江四人、右両人づっ毎日相廻り、庄屋村役共虫付の義、篤と吟味刈揚げこれ無くくされ捨て候分は相改め刈揚げ候様、仕らせ候の様仰付けらる。(続実録、巻之五)中小姓・徒士の侍を刈り取り督励のため、特別に繰り出そうというのである。刈り取り作業を行う者はもとより農民である。