ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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竹鳩付近の農民の生活の様子が書かれており、当時の村の生活をうかがうことができる。高鍋城Fの領民の生活肢様去夏之時分、竹鳩御出、西別府、磯(蝦)別府御通行。殊外草ぴれ臥候、如何之子細候哉。役目繁候哉と御尋被v成候。外郷一一勝れ草臥候、御役目繁と申ニテも無ニ御座一候。何方も同様一一候。此所ハ団地早損所一一テ御座候。近年不作放と奉v存候。別ニ存寄も無ニ御座一候。近所竹山故是を自由ニ少々御運上一一テ我物-一仕立候ハ、百姓為ニも相成後々御運上増申様仕り候ハ、、御為-一も相成v可申と申上。其節御供隈江五郎左衛門、八回藤兵衛御供也。罷帰り、代官吉田安右衛門へ相談両所十軒之者へ畠地物廿俵御借(貸)被v成候得は、心易作付可v仕と安右衛門申出、廿俵御借(貸)被ν成。(大意)だけ〈にしのびゅう四代藩主種政が竹鳩に行き、西別府・磯別府(蟻別府〉を通行した折、両村があまりにも疲弊している様を見て、「何か理由があるのか。農民の役目が多すぎるのではないか。」と尋ねた。「ほかの村に比べて特に疲弊するほど役目が多いわけではありません。ここは団地が水不足の所で、近年不作のためと思われます。近所は竹山ですから、少しの運上を納めさせ、竹山を自由に利用させてはいかがでしょうか」と申し上げた。御供の者は帰城して代官と相談し、両村の一O軒の者に麦二O俵を貸し与えるよう代官が願い出て貸し与えた。だけ〈竹鳩は小丸川の北岸であるが上江郷に属し西別府・蟻別府はその北に続き、現在は川南町に所属している。務政時代には竹鳩・西別府・蟻別府は同じ区画のうちであった。日向地誌によれば、竹鳩に五戸、西ノ別府ニ二戸とあり、蟻別府はそのうちに含まれていたと思われる。身近な第7章竹鳩付近の水不足による疲弊の状況と、これに対する藩主以下の考え方と処置が見られる。右の文中の「役日」とは務に上納する年貢と労役を加えた良民の全負担のことで、それが多すぎるのではないかという藩主の聞いに対し、家老の隈江と用人の八回は、水不足による凶作のためと答え、その救済処置として、竹山の利用と麦二O俵の貸与がなされた。その救済処置すなわち撫民には「御為にも相成り申すベし」という考えが根底にあったとしなければならない。現代的な救済とは本質的に異なるものであった点に注目すべきであろう。雨新納・野別府の「代官目安」には、項がそれぞれ記載されている。御初穂銀三匁神楽銭社人一人初日八十文リハ四十文ッ、可ニ相渡一事代官上下二人検者一人下代一人小触乙メー乙い「尾鈴雨乞」の一尾鈴雨乞二日目ヨ庄屋一人社人十人名口才各一人人足十八人右人数上下共ニ能米一升ッ、御賄相渡候事数多少在ν之候事但時-一ヨリ吟味ノ上人(新納代官目安)天明元年(一七八一)から同三年に至るころも災害の多い年であった。四月は長雨、新納・野別府は麦の被害四、五割、福嶋・諸県は四割から七割であった。五月末に大風雨洪水、閏五月の初めから日照りが続き早魅の様相が濃くなった。各地で雨乞いの祈願祭が行われた。尾鈴山、蚊口浜、彦尾、比木社、各村々の鎮守の神々。六月十四日には比木社において落主種茂が雨乞いの祈願祭を行っている。「続実録、巻之五」に次のごとく記録している。345(書き下し文)