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概要

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世。納代官目安」や「野別府」、「蚊口代官目安」の内容と必ずしも一致しない。時代の相異によるのであろうが、更に後日検討したい。しかし、租税の種類および廃税見込みの雑税が挙げられているのは参考になる。廃税見込みのものを挙げると次のとおりである。近第4縮正租の部一、大麦古新高付地の夏税として一反歩につき平均二升五合であったが、今後廃止の見込み。二、椋相、椿、桑、茶、柿、蜜柑、九年母の類の村方弁納は廃止の見込み。雑税の部かおまき一、渋代、帳紙代、苫代銀、紺銭、山手銀、良薪、紙漉灰薪代畳表代、萱韮代米以上の銀銭納は廃止の見込み。ところたてがみ二、鍛冶炭、起炭、鹿皮、牛馬皮、留鉄、野老、甲根、馬尾、櫨実(村方弁納)緒皮(村方弁納)以上の上納は廃止の見込み。かまどまい三、口米、糧米は廃税の見込み。とんにぞく四、豆腐屋、商蕩屋肴振売り、宮市菓子売り、茶店の類は廃税の見込み。以上三五種が廃税の見込みとして挙げられている。右に挙げた物のうち、代官目安には見られなかった雑税もある。これを見ても農民たちの負担は多種多様であり、極めて重いものであった。さきに高鍋村ほか三村と蚊口分の田方年貢の平均は三=一・七五%で佐土原、延岡両藩よりは低率と見たのであるが、これらの雑税も加わると相当重い負担である。このように重い年貢負担のうえに、夫役という労役提供の義務を負わされ、連帯責任制を強制されていた農民をどう見るべきであろうか。高鍋藩ばかりでなく、幕府の統制下における各藩は、幕府から課せられる軍役、普請役、あるいは参勤交代そのほかさまざまの謀役に応じなければならなかった。公家馳走役一つを取ってみても、藩財政の大きな負担であった。それとともに、封建制としての藩体制そのものの持つ諸種の矛盾もあった。それら一切を生産に携わる農民たちに権力と武力をもって強制する以外に方法はなかったのである。しかし、強制される農民には、それを回避することも抵抗することもできなかった。抵抗するごうそいつきちょうさん方法があるとすれば、強訴か一授か逃微かであった。しかし右のいずれも死の犠牲者を出す覚倍が無ければできないことであった。また藩自体も一授や逃散が起これば藩の存立にもかかわることであった。「生かさぬように、殺さぬように」というのが農民政策であると言われたゆえんである。高鍋藩も士口い時代には一授がしばしば起こっている。それも福島地域に多く起こった。しかし、時代が下るにつれ農民の騒擾事件は少なくなり、特に新納、野別府地域では起こっていない。撫民政策がきめ細かく行われたためであろう。特に城下に近い新納地域では一段と配慮が行き届いていたと思われる。344五災害と農民農民には更にいろいろな負担がかかっていた。日照り・暴風雨・洪しかいのしし水・虫害・鹿や猪の獣害の災害は繰り返し襲いかかった。直接の損害を被る者は出民であった。防災施設のふじゅうぶんな時代で損害も大き主即一まJ』Vく、ただ神仏の加護を祈るしか方法はなかった。日照りが続けば雨乞いの祈願をし、祈願祭の費用も負担しなければならなかった。暴風雨、洪水が起これば収穫は減少し、しばしば飢餓におびえ、堤防や井手の修かわよけぶやく復、川除工事はすべて夫役となって労働を強いられた。農民の負担は極めて重かった。「拾遺実録、巻之三」の元禄十年間二月十三日の記録に、