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概要

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はこれを農民一人一人に割り当て、小触を通じて通達し、年貢の上納は一村全体が連帯して責任を持つ。村を椛成する基本共同体には、ほかの藩と同様に五人組があった。さきに引用した宝暦四年の新納代官泥谷浅右衛門の存寄にも、「作方仕付組合ヲ立、無こ油断一出精候様、不精之者ハ組合ヨリせり立、出精候様可v為ν致、若気俵申相背候者ハ蛇度可ニ申付一事」といい、作付けの際の共同作業が五人組で行われていたことを示し、収穫も、上納の諸作業も同様であったと思われるのであるが、具体的記述は見当たらない。しかし、年貢の上納が村請け制で、村全体で上納していたことを一示す記述がある。拾遺実録巻之六に「川北郷書出」という記執がある。川北郷は新納ではなく野別府内ではあるが、内容が参考になるので、少し長いが引用してみよう。正徳三年(一七二二〉八月、天領富高に幕府の巡見使が来て、「近郷私領の正徳元年から同三年までの田畠の御取骨(年貢)掛物銀銭など(諸税〉を取り調べて提出せよと仰せ付けられたから」という富高新町の庄屋からの連絡によって提出した文書の写しである。高鍋城下の領民の生活日州児湯臼杵両郡之内(種弘〉秋月山城守領内野別府川北村一回畠高弐千九百九拾壱石弐升六合内田高弐千弐百六石五斗九升四合壱合壱勺=一ツ四分壱厘四毛〈ちまい右之米十石ニ付米四斗日米と申定外一一掛候畠高百九十四石六斗壱升五合此取大豆五拾八石三斗八升四合五三ツ成此取米七百五十三石三斗三升第7章勺屋敷高五百八拾九石八斗壱升七合此取銀三世五百八匁九分弐毛壱石ニ付六掛リ一米拾三石弐斗右は竃米山手苫代帳紙代として納申候。一高之外山野作リ口諸色毛上付候分ハ御検見ニテ少ッ、掛リ申候。一伝馬役・助役と申ハ無ニ御座一御大名方御通之節は駄賃銀出申候。山城守罷通節は馬飼料口付飯米御蔵より相渡り申候。一策卯辰三年平均高と御座候得共在所は定免ニテ右之石高出入無ニ御座一候八月十三日野別府組頭治衛右門新町庄屋久野右衛門蹴平岩圧屋重右衛門殴(拾遺実録、巻之六)明治五年六月に美々津県参事福山健偉が大蔵大輔井上馨に提出した次の文書がある。(一二当管内租税方法取調別冊之通候処、最早収納央ニモ及居候問、廃税見込之件ニ何分至急御沙汰有之度候也年貢の説明文書壬申六月(舌附m川合公文告御指令綴)内容は、旧延岡県、旧高鍋県、旧佐土原県の従来の租税法を述べ、廃止すべき見込みの税目を挙げている。廃税見込みの件について至急指令せられたいという文書である。旧高鍋県(落)の従前の租税方法と廃税の見込みについては四六項目にわたり説明している。従来の租税方法の説明は、さきに見てきた「新343