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概要

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銀三分を差し出さなければならなかった。蔵入地でなく給主に従属する給百姓は、給主へ二日、庄屋へ一日出役し、出役できないときはやはり一日銀三分を差し出すきまりであった。四月・五月の農繁期には農民を夫役に駆り出すことはいちおう禁止されていたが、やむを得ない場合は一日につき賃銀九分一厘を支給して出役させることができた。ただし、藩主の参勤や上使の来藩の場合、御城普請、隣藩の藩主の通行、井手普請、往還道造り、堤普請には賃銀は支給しないというのが規定であった。通常の夫役は土木工事が多く、監督の監視のもとに作業をしなければならないから、体力のある若い者が出役した。家業には年寄、女子、子供が従事したから能率は低下した。暴風雨、洪水、地震など災害の多いときは夫役も多かった。安永=一年八月二日先達テ洪水之節、安蔵川上川除大破、人足壱万千人之積出。人出切間敷。伺之軍役ニテ三十三石ニ付一人ッ、。右以下之御奉公人志次第加勢之様被ニ仰出一。(続実録、巻之三)高鍋城下の領民の生活かわよけ洪水によって安蔵川上の川除大破。人足の見積り一万一、000人。普通の夫役では賄い切れないから、軍役令に従って高三十三石に一人の割で出役を命ずる。右以外に奉公人も自発的に参加するようにせよ。というのである。貞享二年(一六八五)七月二十三日第7章小丸川高城荒瀬水垣所、同薮村三所崩、切原村出口崩、持田村崩、安蔵川除切場同村西川除、持田村井手部切七ケ所、人足壱万弐千百四十人、此飯米九十壱石壱斗壱升。(拾遺実録、巻之一〉このような小丸川の護岸工事や井手溝の修復のほか、元文三年(一七三八)高鍋城崩壊の崩土の取り片づけ作業に十一月から翌年二月まで四か月間に人足一万一、O八七人を要しているものもある(拾遺実録、巻之九〉。「代官目安」によると、通常の夫役は三食付きであって、朝は正六ツ附(六時〉に作業現場集合で日没まで。公反人(公地の農民)は二食付きで朝六ツ半時(七時)集合、給反人(給地の農民)は白飯米(手弁当〉であるから五ツ附(八時)集合で日没までであった。一五歳から六O歳までの農民はすべて上・中・下三段階に位分けされていたのは、夫役の際など適切な部署への配置などのためであったかも知れない。普請の諸道具でそれぞれが所持している道具は貸与されないが、普段所持しない種類の道具は貸与される。ただし、破損した場合は自己負担で修理して返納しなければならなかった。夫役は賄付きが通常であったが、ときとして飯米で支給されることがある。夫飯米は一人一目、赤米七合五勺であった。もし半日で済むような場合は、その距隊などを配慮し夫飯米を支給した。幕府の上使や、隣藩の藩主の通行の際、前もって道普請や掃除に出役の場合は定められた飯米が支給された。また、給地の農民が井手の整備や修復のために出役した場合の飯米は給主から受け取るのであるが、掛り庄屋が計算書を作成し井手方に提出し、その書類をもって農民銘々が受け取るという手続きになっていた。ともすると起こりがちな農民の不満に対する配慮であったであろう。運i上Eみようが小物成の一種に運上・冥加がある。営業に従事する者に賦課する雑税で、一定の税率を定めて納付させるものを運上といい、定率がなく、免許を得て営業し、金銭を上納するのが341冥加である。ここでは一括して運上としておく。