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概要

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町の蔵屋敷も同様であった。日光御霊屋の修復手伝をようやく済まし、たねとみひざもと前年種任は隠居して種段が家督を継いだばかりであった。将軍御膝下の江戸藩邸の再建は急を要することであった。主家の窮状を思い、家臣や町人のうちから、あるいは金一O両、あるいは銭一OO貫文、中には銀四一匁五分など献納する者があった。これが端緒となり弘化三年四月、金子献納の者に、二定の規定を設け格式と扶持を与えることとし、藩邸の普請費用を集めることになった。規定は詳細にわたっているが大略は次のとおりである。一金五OO両以上献納の者には永代中小姓格七人扶持。一金三OO両以上の者は永代徒土四人扶持。一金二OO両以上の者は一代徒士=一人扶持、風より組外三人扶持。一金五O両以上の者は一代組外一人扶持、体より帯刀御免一人扶持。一金三O両以上の者は父子帯万御免。一右献納の者は別に一組を立ててその取り扱いを定める。右は農民町人からの献納の場合で、徒士以下諸奉公人からの献納の場合は、藩末変動期の高鍋一金五OO両以上献納の者は永代中小姓、持高に七人扶持を加える。一金三OO両以上徒士格の者は七人扶持、一代徒土以下の者は永代徒士格、四人半扶持。一金二OO両以上、永代徒土の者は四人半扶持、一代徒士の者は孫まで徒士格=一人扶持、組外格扶持の者は同上。以下一OO両、五O雨、三O両に分けて格式と扶持を与えることを定第6章めた。弘化四年十二月には更に一定額追加献金の者にはその額に応じて扶持を地方に直して与えることも行われた。以上の規定によって献納に応じた者は、農民吋人が一五O両を最高として三二人、二、二一五雨、諸士・諸奉公人は五八O両を最高として六二人、四、四四O両、総計六、五六五両の献納が行われている。このほか諸土始め諸奉公人、町浦津、被官、農民まで金は一両以上、銭は一五貫以上、米は二俵以上の献納の者もおおぜいあり、これらも褒詞、酒、吸物、によって褒賞され、あるいは立身することのできた者のあったことが、嘉、氷三年九月二十一日の記録に見える(続実録、巻之二一)。江戸藩邸の再建は多くの人々の貢献によっている。右に挙げた度重なる倹約令の励行、家臣の知行借り上げ、御用商人からの借入金、広く農商にも呼びかけた献納金の奨励、これらによって一時的に急場をしのぐことにはなったが藩財政の根本に触れるものではなかった。そこで更に進んで国産を奨励し、藩営事業を拡充する方策がとられることになった。すなわち殖林に着目し、木材木炭などの山林収入ゃ、製紙、製蝋にも利益増加の工夫をこらすことになった。寛保二年(一七回二)に指杉などの官民分収三か木材の切り出し条を定め、歩一山、御手山、見覚悟山などにより、植林を勧め、山林資源の増殖に努め、一部伐採して江戸へも送り出したのであった(第四章第一節二二三頁)が、この期になると年々伐採し、増大する藩の費用に充当した。続本藩実録に文化十四年から天保の初めまで山林払代として第幻表に示すとおり記録されているが、これは木材の売払金である。銭(銅銭)で三万八三六貫二六O文、銀で六一二貫一四七匁余の収入である。一か年平均、銭二、O五五貫七五O文、銀四O貫八O九匁である。銀六O匁、銭四貫文をそれぞれ金一両として計算すると約一、一九三両である。当時の江戸参勤の費用は江戸から高鍋まで一、五OO両という記録(続安録、巻之一O〉があるから、それに多少足りない程度の収入であった。275