ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
- ページ
- 67/92
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている67ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている67ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0008-3_takanabe
であったと見られる。その程度が適当でもあったのであろう。宝暦十年、天明二年に六OO戸余の野別府川北郷を三分して名主支配とした記録、がある(続実録、巻之五)。惣庄屋の名称の見られるのは貞享二年の人給帳に「惣庄屋半右衛門知行一O石五斗」と記載されているのが最初である。「落史一班」巻之五に「荘屋(庄屋)乃一村農民之長」とあり、惣庄屋高鍋城下の領民の生活ピテナルヲシヲラシムヲエハル総荘屋始択ニ荘屋之老練者一任ν之。掌一一賦課格役於各荘屋一。今為-一世襲職一。という解説がある。代々の人給帳によると、中鶴の岩村家が世襲していたことになっている。庄屋は藩から任命され、通常は世襲的に任命され、その居宅の新築費のごときも半額は農民負担が認められていた。庄屋本居宅新規ノ節、半高郷中ヨリ出銭、其後年々修覆等は可v為ニ自勘一事但葺替之節は是迄之通郷中ヨリ相雇候事(規定書北方村〉圧屋は代官支配の下に年貢の割り付け、徴収・決算に当たり、強い権力を持っと同時に重い責任も持たされていた。多くの人聞を掌握していく根本は、時の古今を間わずその人間性にあったと思われる。前掲の北方村の規定書にも次のとおり「撫育専ごという表現をもって次のごとく述べている。第7章庄屋役之儀は郷中撫育専一之儀ニ付、廻郷之儀相成だけ圧屋相勤め、万一病気差合之節小触名代為ν致候様、相心掛可v申候。且又諸上納取立帳面類も、相成るだけ自分致し、手届き兼ね候処は小役の者へ申付け候様致すベく候。尤も是迄の通り、庄屋役前の儀、忘却せしめ、小触へ任せ置き候体の儀、柳か有v之候はば、定御目付は勿論、村横目役よりも印封を以て内実申出候の様申付置候問、其節きっとは、委細吟味に及ばず、至当の節を以て吃度裁許申付ベく候問、其旨兼々相心得申すべき事(書下し文)と言っている。田畠の植え付け、風雨洪水の災害の処置、早魁に雨乞、かいさく長雨に日乞、虫送り、田畠の開拓、井手の開撃・修復などはもとより、あっせん農民の教育、婚姻の斡旋、もめごとの調停に至るまで尽力するのが庄屋であった。そして右の文中にも見られるとおり、地方支配に携わる代官も庄屋も、監察機関として設置せられた定日付・村横目から、その活動の様子は上層へ報告され、不正や失敗、農民指導の欠陥があれば処罰を受け、重きは圧屋取り上げ、あるいは所替えに処せられることもあった。慶応三年四月二十三日ものまね科銭五質文。高鍋圧屋組外黒木藤太郎方え。永谷村百姓共物真似(芝居〉候を不v存、兼テ取締方不行届ニ付頭書の通り。(続々実録、巻之十二)百姓たちが芝居をしていたのを知らなかったのは、庄屋の普段の取り締まりが不行き届きだから罰金五貫文(約一両)に処するというのである。高鍋藩では無届物真似(芝居)は御法度であった。芝居をするのはもとより、天領穂北辺りで行われるのを見に行くことも禁止されていた。また安政三年(一八五六)三月、日置圧屋坂本武左衛門が「百姓撫えかた育方不v宜、其上私欲依方之義(不公平〉多く有之候間」(続々実録、巻之十三)として庄屋役、格式を取り上げ、平田郷に所替えとなり、他郷の俳佃を固く禁ぜられた記録もある。庄屋に対する処置が厳しいということは、またそれだけ重要な職務であったことも示している。惣圧屋は禄高一O石五斗のほか、役料五俵、335