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概要

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世4仕付時期に庄屋小触は三、四日に一日見回り差し図をすること。5下代は仕付け時期に二、=一固まわること。ささげ6他人の大根、大角豆、葉芋の類に手を掛けた者は科銭五O文1一00文。隠し置いたものを見付けたときは、作人へ五OO文弁償させる。これはお上から命ずる。7郷中上納の済んだとき、牛馬祈祷(駄祈祷〉を許可する。8牛馬を持たない者には購入資金六貫文貸与し十年賦で返済させる。近第4編9新堤、また川筋より井手の必要のところは申し出次第、見分吟味のうえ、処置する。当時の財政の基盤は農業生産にあり、農民を直接支配する代官の任用は極めて重要であった。農民騒動の起こることがあれば落主の改易や所替えの原因にもなりかねない。その例はすぐ近くの延岡藩に起こっている。元禄=一年(一六九O〉八月、都農股猪野へ延岡藩領山陰の農民千数ちょうさん百人が逃散して来るという事件があった。そのことが原因で、藩主有いといがわ馬氏は越後国糸魚川へ所替えとなっている。高鍋務内でも、寛文七年(一六六七〉、天和元年(一六八一〉、元禄十五年(一七O二)、享保六年(一七一一一)の四回にわたり飛地福嶋で農民騒動があり、-日子保六年のときは諸県農民が薩州領内に逃散するという事件が起こっている。天明三がらまっ年(一七八三〉には大風雨洪水があり、相次いで牢肱となり川北・川南両郷の農民の聞に、不穏な動きがあり、代官が郷中に入り込み説得に努めている。したがって農民を直接支配する代官の任用には格別の配慮がなされた。さきに、宝暦四年に代官心得の存寄を提出した泥谷浅治衛門は、宝暦=一年にいったん代官見習に任用され、実務経験を積んだ後に代官に任よししげおきかね用されている。また財津十郎兵衛吉恵・千手八太郎輿欽などの学者を代官に登用したのもその一例であろう。財津十郎兵衛は、安永六年(一七七七)新納代官として積極的に意見を上申し、農民の負担軽減を図るべきことや、地問事の効率を図るために、貧困の者も農耕馬を購入し得る方途などを進言している。千手八太郎は、後に藩校の創立を進言し、安永七年明倫堂創立と同時に財津十郎兵衛とともにその師範となり、藩臣子弟の教育を担当し、後、天明元年ごろ野別府代官、更に福嶋山西代官に転じ、天明八年(一七八八)福嶋に社倉を設置し、社倉条目案を作成したりした人である。このように代官には有為な人材を用いた。334庄屋は、代官の支配のもとに直接農民を支配した村の長である。庄屋という呼称が本藩で初めて見られるのは既に述べたとおり寛文五年(一六六五)である。現存の寛永十五年三六三八〉、同二十年(一六四三〉、万治元年(一六五八)、寛文七年(一六六七〉の人給帳を見ると万治元年までは、正屋役に相当するものはすさんしベて催司と記載せられているが、寛文七年の人給帳には惣さんじ、蚊口さんし、みみっさんし以外は庄屋に改められ、その後藩政末期までそのまま継続している。寛文五年の記録には圧屋の名称が見られるから、万治二年三六五九)から寛文五年三六六五〉の聞に圧屋という名称が用いられるようになったと見なければならない。庄屋は元来一つの郷に置いた。文化五年(一八O八)ると、庄屋一月の記録によ新納七カ村竜合七百四十八軒福嶋山西電合千百廿軒、山東電千六拾三軒野別府両名千三百九十一軒(統実録、巻之十一)とあるから庄屋の支配地はだいたい、戸数一OO戸ないし二OO戸程度