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概要

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第7章間ごろの絵図と思われる。巻之二乙であること、内野良平の一代小給立身などからみると、嘉、氷年高鍋城下の領民の生活は世襲と思われるが、横尾が世襲小給に立身したのは嘉、氷四年(実続録、あり、一代小給は内野良平のごとくご代小給」と書かれている。横尾屋敷割図」中、横尾仲治が小給と書かれている。小給に一代と世襲とが初代の明倫堂の稽けいこ古改役(管理責任者)河辺弾右衛門であるあらためやく。「平原のされている。筏の河辺家は現在の高鍋図書館のある屋敷で、その祖先はこの屋敷割図は町立高鍋図書館所蔵であるが、「イカダ河辺蔵」と記三道具小路の屋敷割図二馬場原・川田・楠木の屋敷割図一平原の屋敷割図あるが、集落の構成状況の参考となると思うので次に掲げる。枚ある。純然たる在方でなく、中下級武士や、諸奉公人の多い地域では地を耕作していたからである。安干い幕末ごろの屋敷割図が次のとおり三諸奉公人も相当数住んでいた。下級武士の地じ方かた取とりや諸奉公人も自分で農在(在方〉の住民は主に農民、浮世人であったが、中級・下級武士やた」ともいう。勤方心得)。町方、浦方に対して在方高鍋藩では町くこととするまちか。た浦ざいかたむらかた、村方ともいい、なまって「ぜか津に対して郷村を「在MC」いといった(拾遺実録巻之三諸役の三郷で鴫野郷は含むべきではないが、便宜上持田郷のうちに入れておしたがって、ここで城下の三郷というのは、高鍋郷、上江郷、持田郷る。入されたのはずっと遅れて明治十五年(一八八二〉十一月のことであ見られ、野別府代官の支配地になっている。鴫野村(郷)が持田村に編今2瓢2挽3長主石工毛け大で筏}:高嶋主管2木r谷E原t作?工つだ鍋阜り小く郷路じ(道ど宮2小ぉ神こ水手脇主宮2七具ん越Z丸Z祭ぜ谷ゃ回だ村小〈野の原2>路じ読田た順ぷみLidi E ;鰐君!警李:喜;宮失うku :内2寺じ寺じは古2道町』伝町ミ)承含中?されむ間Zてし、路じる呼び方\ノられる村名を次に掲げる。相当する。宝暦六年(一七五六〉、文化十二年(一八一五)の人給帳に見らいから中には一OO戸以上あるところもある村で、明治以後の小字にとあざといっても町村制時代の村のように規模の大きいものでなく、一O戸ぐ域下三郷の高鍋・上江・持田にはどんな村があったのであろうか。村城下三郷の村名居地域。城下町の東部に当たる職人住居地域。職人、諸奉公人、農民の住第9図、道具小路の屋敷割図(高鍋郷〉少数の中、下級武家と諸奉公人と農民の住居地域である。第8図、馬場原・川田・楠木の屋敷割図(上江郷〉人という地域である。から徒士まで六五戸、庄屋以下農民が二三戸、ほかは寺と諸奉公平原は城北の地域で中、下級武家屋敷が多く、二二戸中、小給第7図、平原の屋敷割図(上江郷〉329